請願書第四弾目を政府に提出しました。平和憲法へ対する安部元首相の言葉や、憲法九条を生んだ幣原喜重郎元首相の言葉を添えました。昨日の続きです。


幣原喜重郎の証言(平野文書)
昭和21年(今から80年前)に公布され、1947年・昭和22年(今から79年前)の5月3日から施行された「日本国憲法にほんこくけんぽう」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう [1]元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。
聞き手は衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎[2]で、聞き取りは、幣原が亡くなる10日ほど前の、1951年・昭和26年(今から75年前)[3]の2月下旬に行われたとされる。有名な引用句
幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年・昭和39年(今から62年前)の2月に憲法調査会[4]事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。
これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。
平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 - 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。
憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長[5]から面会の申し込みがあった。(中略)
高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」
高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。(中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。
これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
それに対し、博士は、
「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
というのであった。
そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。
【平野三郎の憲法調査会への『報告書』による、幣原喜重郎元首相の主な言】
(括弧内は平野の質問の要旨)政府
(第九条は現在占領下の暫定的な規定ですか、何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか)
一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。
(軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか)
それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。
次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋[6]ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。
僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。地図
(他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)
その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。
(憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)
そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
世界の共通の敵は戦争それ自体である。
(2) 幣原喜重郎の証言
さて、もう一方の幣原だが、この問題に対する彼自身の直接的な証言はほとんど残
されてはいない。ただし、自らの著書『外交五十年』の中で次のように述べた箇所が
ある。これも大変重要なものであるように思われるので、(少し長いが)次のとおり
引用する。
「戦後の混とんたる世相の中で、私の内閣の仕事は山ほどあった。中でも一番重要
なものは新しい憲法を起草することであった。そしてその憲法の主眼は、世界に例の
ない戦争放棄、軍備全廃ということで、日本を再建するにはどうしてもこれで行かな
ければならんという堅い決心であった。
……[1945年8月15日のこと、当時在野にあった幣原は、日本クラブで天皇の「玉
音放送」・無条件降伏を聞き、ショックを受け、帰宅の途につく。家へ帰ろうと電車
に乗ったとき、その車内で「非常に感激の場面に出逢」う。]
乗客の中に、30代ぐらいの元気のいい男がいて、大きな声で、向こう側の乗客を呼
び、こう叫んだのである。
『一体君は、こうまで、日本が追いつめられたのを知っていたのか。なぜ戦争をし
なければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこん
な大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっとも判らない。戦争は勝った勝っ
たで、敵をひどく叩きつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。
足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らん間に戦争に引き入れられ
て、知らん間に降参する。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ』
と、盛んに怒鳴っていたが、しまいにはおいおい泣き出した。車内の群衆もこれに呼
応して、そうだそうだといってワイワイ騒ぐ。
私はこの光景を見て、深く心を打たれた。彼らの言うことはもっとも至極と思った。
彼らの憤慨するのも無理はない。戦争はしても、それは国民全体の同意も納得も得て
いない。国民は何も知らずに踊らされ、自分が戦争をしているのではなくて、軍人だ
けが戦争をしている。それをまるで芝居でも見るように、昨日も勝った今日も勝った
と、面白半分に眺めていた。そういう精神分裂のあげく、今日惨憺たる破滅の淵に突
き落とされたのである。もちろんわれわれはこの苦難を克服して、日本の国家を再興
しなければならないが、それにつけても我々の子孫をして、再びこのような、自らの
意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組立から改めなければならぬと
いうことを、私はその時深く感じたのであった。……
……私は、図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に
浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の
意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中
に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。
つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならない
ということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からで
あった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。
よくアメリカの人が日本にやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思
に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは
私に関する限りそうではない、決して誰からも強いられたのではないのである。
軍備に関しては、日本の立場から言えば、少しばかりの軍隊を持つことはほとんど
意味がないのである。将校の任に当たってみればいくらかでもその任務を効果的なも
のにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負け
るに決まっているような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目に軍人になって身命を賭
するような気にはならない。それでだんだんと深入りして、立派な軍隊を拵えようと
する。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、
むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄をしてしまうのが、一番確実な方法だと思
うのである。
もう一つ、私が考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力とい
うことである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、
軍隊よりも強いのである。……[侵略・占領軍に国民が従わず一致団結して抵抗した
としても]八千万人という人間を全部殺すことは、何としても出来ない。数が物を言
う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持
ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。……だから日本の生きる道は、
軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、これ以外ないと思
う。」(55)
こうした証言の妥当性については様々な考えがあるだろうが、まずは、これら当事
者の証言が各界各層にあまり知られていないこと自体が問題だと私は思う。そして、
幣原が(新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたん
じゃありませんかと聞かれることに対して)「それは私に関する限りそうではない」
と答えている部分はなかなかに深い意味を感じさせられる表現である(後述のように、
幣原と他の閣僚[とくに松本烝治国務大臣]との第9条等についての意見や認識の違
いを示唆するようにも読めなくはない)。
幣原は、戦前から平和・軍縮を希求する(本来の意味での)ステーツマンシップを
持った外交官として著名であった。そして、大正デモクラシー花盛りの1920年代など
には、外務大臣として数々の国際的な軍縮会議等に参加して、日本外交のイニシアチ
ブをとり、幣原の名を内外に知らしめた。この「幣原協調外交」とは、本来、「十九
世紀的なパワー・ポリティックスではなく、二十世紀の世界平和の組織化と国際協調
と軍縮、……内政不干渉と経済外交といった大原則を『継続性』をもって貫く『原則
外交』であ」(56)ったのだが、しかしだからこそ、1930年代の軍国主義台頭期には、野
に下り一般国民同様の戦争被害を味合う境遇へと突き落とされることにもなった。こ
れが幣原の原体験と言うべきである。その幣原にとっては、戦争放棄の発想は、自ら
の経験と「野に叫ぶ国民の声」に押されて自らの確信を深めたものであり、こうした
幣原の信念は、戦後こうした形で活かされたのではないだろうか。
ただし、この憲法9条の成立論については、これらとは異なるアプローチもあり得
る。以下、章を改めて、複数の章においてそれぞれこうした憲法9条成立過程の問題
についてより深く掘り下げて行きたいと思う。
(かわかみ あきひろ 広島市立大学広島平和研究所准教授・憲法学)
これらの幣原喜重郎やマッカーサーの証言によると、憲法九条は安部さんや高市さんが誤解しているように、アメリカにおしつけられたものではなく、もっと宇宙的な視野で生み出された「平和への願い」だとわかります。
戦争がしたくて仕方ない、自民党保守の高市、小泉のような人達は理解しようとしないでしょう。本当に視野の狭い哀れな人達だと思います。
枠があるので請願書のコピーは明日またコメント致します。