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以前のお知らせ(署名賛同数1万人突破!ありがとうございます。署名活動への思い/メディア掲載のお知らせ )で、発起人及川がこの署名活動に込めた思いと簡単なわたしの闘病についてもお伝えしていました。
今回のお知らせでは及川の闘病と生体肝臓移植経験を詳しく、またそれらを過ごす中での生活についてなども合わせてお伝えしたいと思います。
もし自分だったらどういう選択肢があるか、どういう選択をするか、どういう環境にいるか、など想像しながら読んでいただけたらと思います。
■及川の生体肝臓移植経験談
私は、弟が生体移植の肝臓提供者“ドナー”になってくれたおかげで移植手術を受けることができ、難病悪化から余命1年という状況から命を救ってもらいました。
難病がわかるまでは生理痛が重めで貧血気味、あとは花粉症。ありがたいことにそれぐらいしか問題がない健康な体でした。
□28才:持病発覚
当時は満員電車で都内へ通勤、責任が重く緊張感のある仕事で多忙でしたが、好きな仕事を夢中で頑張っていました。
▶ストレスからか?胃痛が続き、消化器系クリニックを受診、胃カメラと血液検査を受ける
→検査結果:胃はとくに問題なし。しかし、「お酒すごい飲むんだね」と言われる。
ごくたまに飲んでも1~2杯程度でしたが、血液検査の肝機能の数値が悪く大酒飲みかと思われたそうです。これがきっかけで大きな病院でさらに調べることになりました。
▶胃ではなく大腸に「潰瘍性大腸炎(大腸の粘膜にびらんや潰瘍ができる炎症性疾患)」と肝臓にももう1つ病気があることがわかる
→その時点で肝臓の病気は2つの可能性がありましたが「もっと状態が悪くならないとどちらか確定できない」と言われました。どれも難病でした。
可能性を告げられた病名「原発性硬化性胆管炎」の当時のネット情報には『診断から10~15年で死に至る』『有効な治療法はなく末期の患者の救命手段は肝移植しかありません』と書かれていました(お知らせのTOP画像は当時印刷していたものです)。難病発覚当時の私にとって遠い世界のはなしだと思っていた為か、移植の文言を読んだ記憶がなく、移植後に印刷したものを見つけ読み返したことで、移植についての文言があったことに気付きました。
この頃はまだ自覚症状もほとんど無かったのに『難病=完治しない』『これから自分の体調が悪くなり、思い描いた未来を叶えられない』『今より幸せな時間はこの先来ない』『どうせ死んでしまうなら生きていても仕方ない』そんな風に思い、仕事帰りのホームで衝動的に電車が近づく線路に向かっていました。大切な家族や友人、恋人の事、賠償金がかかり家族に迷惑がかかる事も思い浮かびませんでした。
あと数歩というところで『(事故や突然の病気などで)10~15年後に死んでしまうかもしれないのはみんな同じじゃん』と我に返り、踏みとどまることができました。
それからは「いつか終わりが来るなら、生きている時間をなるべく悔いのないように、大切にしよう」と思うようになり、二度とそのようなことは考えていません。
わりと楽観的な自分がそんな風になったことに自分でも驚きました。
▶次の受診時、当時の主治医に「ネットに書かれていたのは本当ですか?」と聞く
→先生は「死なせんよ」と言ってくださいました。その言葉にホッとして嬉しくて、その場で号泣してしまったことを覚えています。
□29歳頃
▶肝臓:自覚症状なし
▶潰瘍性大腸炎:状態が悪くなり、出かけることもままならなくなり1ヶ月ほど治療の為に仕事を休む
→幸い投薬と通院で3ヶ月ぐらいで寛解状態に(完治は見込めない病気の為、病状が落ち着いたことを言います)
潰瘍性大腸炎はこれ以降、少し波はあったものの大きな問題はなく今に至ります。
▶仕事復帰するも多忙な生活を続けることに限界を感じ退職
→体調が悪化しても働けるよう、職種を変える為に技術を身につけ在宅でも勤務可能な会社に転職
□29歳:結婚
□34歳:娘を出産
□38歳頃
極度の疲労状態になり、左上顔面の帯状疱疹(水痘・帯状疱疹ウイルス感染、ストレスや疲労で免疫力が低下すると発症しやすい)に罹り入院治療を受ける。
→退院後も後神経痛が続く。治療で服用していた薬も多少影響したのか、ちょうど病気がわかってから10年ぐらい経ち、血液検査で肝機能の数値が悪くなっていく
▶自覚症状がではじめる
→この頃は少し疲れやすくなったぐらいでした。
▶服薬で経過観察。しかし、肝機能の数値が改善することはなく、急激に悪化
▶定期検査で、肝臓の病名が確定
→「原発性硬化性胆管炎」でした。
胆管が障害されて狭くなり、胆汁の流れが悪くなるとともに肝臓の働きが悪くなる病気。合併症で潰瘍性大腸炎など大腸の疾患をもつ人も多いそうです。
先生から「ここから良くなることはほぼ無く、肝硬変になったりしたら肝臓移植などのはなしになる。今はできる治療方法がないから服薬で悪くなるのを抑えながら過ごすしかない」と言われました。
そう言われてもどこか他人事のようで、自分は移植が必要な状態にまではならないと思っていました。
▶この頃から血液検査で血小板などの数値異常も大きくなる。
▶病気や飲んでいる薬の影響による『本態性血小板血症(血が固まりやすくなって、出血しやすくなる血液の病気)』もわかる。
▶さらに『乳頭状腫瘍(胆管癌に進行する前癌病変と考えられている)』が何個も肝臓にできていると告げられる。
→この状態はかなり希少で情報が少なかったそうで、先生は休日を利用して調べたり、知り合いの先生に相談したりと情報収集をしてくれていました。
治療方針説明で「この2つの病気が一緒にあることで治療も難しくなり、普通の腫瘍なら1箇所切除して対応できるものが、あちこちにあるので肝臓移植しかないかもしれない。でも、珍しい症例なので移植を適用できるか今の段階ではわからない」と言われました。
▶家族への病状説明
・肝硬変、胆管癌の高リスクが胆管内乳頭状腫瘍があることでさらにリスクが高くなる
・今後予測されるトラブルと考えられる対処法の1つとして『肝硬変(肝不全)から肝臓移植になる可能性』と『しかし、胆管内乳頭状腫瘍のみでは移植適応不可。また、胆管癌がある場合も移植不可。原発性硬化性胆管炎は移植後高確率に再発する』と言われました。
▶自覚症状が強くなる
→背中に違和感、右胸部下が強く痛むようになる。思うように動けない時や痛みで眠れない日ができはじめました。痛みは肥大した肝臓が体の中を圧迫する痛みの可能性が高いと言われました。
▶妹や母に時々来てもらい、料理や子どもの相手をしてもらうようになる。
→人に弱みを見せたり甘えることが苦手で、手伝いに来てもらうと申し訳なくなり、もてなそうとつい頑張ってしまうため余計しんどくなるように。このままでは意味がないと反省。
『こんな夜更けにバナナかよ』という映画を見たことで、『思うように動けない状態で病気と生きる』には甘えさせてもらうことができないと、治療も生きる事も難しいと感じ、自分を変えないとと思いました。
▶闘病の情報収集や弱みを見せられない自分を変えるため、SNSで本音を吐き出したり、闘病について書きはじめる。移植経験者や待機者の方とSNSでやり取りをするようになる。
□39歳
▶普通の痛み止めを限界量飲んでも効かなくなり、医療用麻薬を使うように
→娘との公園遊びや電車などで出かけたりすることも難しくなり、家でできる遊びをしたり、家事をするだけで精一杯に。お昼寝が必要な生活になりました。主治医の先生からは「血液検査の数値は常にフルマラソンをした後の状態」と言われました。
できるだけ明るく普通にふるまい、とにかく子どもになるべく辛い思いをさせない、不安にさせない、家族に心配をかけない事が自分の体調より最優先でした。この頃から自分の最悪の事態を覚悟し、それに向けた準備もはじめました。
▶自覚症状がさらにひどくなる。
『脂質異常症(脂質代謝に異常をきたした状態)』により『皮膚黄色種(目頭の皮膚が黄色くただれたようになったり、指の関節部分にかたまりのようなものができ痛む)』がではじめ、血液検査では低血糖も頻繁に出るように。
鼻血が出始めたら1時間近く止まらないようになったり、胸周辺はいつも痛み、常に眠い状態に。黄疸と皮膚のかゆみもひどくなり我慢できずにかいてしまい、皮膚がガサガサに荒れたり。腹水(お腹の内部に水がたまった状態)やむくみも。
黄疸で黄色くなった肌に子どもが恥ずかしい思いをしないよう、自分の状態をママ友や担任の先生などにも話しました。
変わっていく見た目と体調に自分の悪化をひしひしと感じていきました。この頃には家事もきつくなり、母や妹の生活援助が頻回に必要になりました。
▶仕事を長期休暇することに
在宅の仕事でも厳しくなり、休職することにしました。腹部の痛みが辛くて眠れず、家族に気付かれないよう泣きながら、ただただ朝が来るのを待つ夜も何度もありました。
□40歳
▶主治医から『生体肝臓移植』の提案をされ「いつ必要になるかわからないから、そろそろ準備をした方が良い」と移植手術ができる大学病院へはなしを聞きに行くように言われる。
その際、自分のためにドナーになる家族に健康リスクを負わせることが嫌なので、生体移植はしたくないと言いましたが、「脳死移植は日本は海外と違って少ない。待ってる間に命を落とす可能性が高く、間に合わない」と言われました。
→紹介状を持って家族と大学病院へ話を聞きに行きました。移植は命に関わる状況になった患者が優先されること、「明日やりましょう」でできるものでは無いため、本当に必要なタイミングでドナーが現れるとも限らず、移植前に亡くなってしまう方が多いことも知りました。
また、移植医の先生からは「生体移植をする際、ドナーに100%リスクがないとは言えない」とも言われました。生体移植の成功率が高いと言われても、心配で仕方ありませんでした。
もうすぐ小学生になる娘と一緒に生きてそばにいてあげたい。成長する姿を見守りたい。でも、、、とすごく悩みました。
家族と話し、弟と妹がドナー候補に申し出てくれました。夫婦間での生体移植も先生から提案されましたが、小学校入学という子どもの不安が大きい時期に両親とも一緒にいられない時間ができる事、私との関係、何より義母の心中を思うとドナーになってもらうことはありえませんでした。
□41歳 3月末
▶こどもの卒園式が終わってすぐ、医療用麻薬を使用しても痛みが我慢できなくなる
→受診したところ緊急入院になり、そのまま大学病院に転院。移植準備をすることに。
▶生体移植への迷いもあり「家族がドナーになれない場合のために脳死移植待機登録も検討したい」と移植コーディネーターさんに相談
→「肝臓移植の待機期間は3年以上になるから登録しても間に合わない」と言われ、諦めました。移植後に知ったのですが、この時わたしは余命1年だったそうです。
▶私とは別にドナー候補の弟と妹が大学病院に臓器提供についての説明を聞きに行きました
▶ドナーを申し出てくれていた妹から「ドナーになれない。ごめん」と泣きながら連絡が
→妹には小学生の子どもが当時2人いました。また、体調を崩すことも多く、よく考えた末の決断でした。
▶弟も本当は断りたくても断れなくなっているのではないかと心配に
→弟が私と話したらさらに本音を言えなくなるのでは、としばらく連絡を取らずにいました。私が弟を避けていることに気付かれたのか、移植医の先生から「ちゃんと話してみたほうがいい」と言われました。
▶弟と話す
→弟は(わたしを不安にさせないためかもしれませんが)あっけらかんと意思が変わっていない事、職場に休みの調整のはなしをした事も伝えてくれました。その優しさに甘え、助けてもらうことにしました。
「自分さえこんな病気にならなければ・・・」と本当に悲しく、弟や妹、家族に対する申し訳なさでいっぱいでした。
▶ドナー候補が決まる。隅々まで検査をして退院
→すぐに移植手術!とはなりませんでした。
▶移植準備のため、弟の体の状態を隅々まで検査
→適合条件には問題ありませんでしたが、弟の肝臓に脂肪肝が見つかりました。改善されるまで移植準備はストップに。
『弟に頑張ってもらわないと移植手術を希望の時期にできない』『私の移植ができる体調のうちに間に合うのか』『家族へ迷惑をかけている状況も長引いてしまう』でも、「私の為に頑張って」なんて思えないし、言えない。ただただ祈りながら複雑な気持ちで過ごしていました。
▶妹や母の協力のお陰もあり弟は食事コントロールなどをすごく頑張り、奇跡的なスピードでダイエットに成功。脂肪肝を改善
→移植手術に向けた準備が再開しました。
▶移植予定日が9月に
▶移植手術に向け個人的な準備も
・それまで家のローンや子育てにかかるお金、今後の医療費や生活の不安もあったため夫は仕事を通常通り続けていましたが、入院前後は子どものために介護休暇を利用し休みを取ってもらうことにしました。しかし、会社から良い返事が当初もらえなかったため、病院でもらった資料をまとめ手紙を書き、許可してもらいました。
・万が一のためにエンディングノートや、11月の子どもの誕生日プレゼントなども用意。
▶予定日が近づくにつれて、母がボーっとすることが増え、物忘れがひどくなる
→弟と私の2人分の心配と生活フォロー、心身ともにかなりきつかったと思います。ダイエットを続ける弟に好物のケンタッキーを大量に買ってきたことがあったそうです。ある時、「弟の健康な体に傷をつけるのがかわいそうで」とわたしのいないところで泣いていたそうです。それまで大した病気もなく健康に育ってきた弟は、母が望んでいた念願の男の子だったと子どもの頃から聞いていました。
▶あとは予定日に入院して移植手術へ?と思っていたが延期に
→移植患者にかけられる医療ソースは限られているため、コロナの影響や前の患者さんの経過などの影響からか、病院都合で延期になりました。さらに体調も悪化している中、移植が間に合うのかなど不安になりました。
□41歳 10月
▶入院、移植手術を受ける
▶弟は手術から10日後に退院
→しばらく足の付け根に違和感がと言っていましたが、徐々に治り大きなトラブルもなく、今も過ごしています。それが何よりうれしく、ホッとしています。一方で今後影響が出ることがないか、心配な気持ちがいつもあります。
▶わたしは手術から2か月後に退院
→術後はあまり順調にいかなかったりで大変なこともありましたが、それから2年以上が経った今もありがたいことに大きなトラブルなく過ごせています。
▶仕事復帰
→移植前後で1年半(傷病手当受給可能期間)仕事を休ませてもらいました。闘病中、会社が私が戻るのを待ってくれていることが安心でした。
経済的な不安はもちろん、移植後に仕事探しをすることや新しい職場で自分の状態を理解してもらうことなどの心配がない為、闘病後の生活への不安を減らしてくれます。
闘病や介護を理由に退職せざるをえない方も多い中、誰にでも起こる可能性があることなので、柔軟に対応をしてくれる会社がもっともっと増えてくれたらと思います。
▶生活
→免疫抑制剤の常用、内部障がい者となり多少の体の不調や気を付ける事はありますが、普通に近い生活を送ることができています。
手術前に黄色かった肌も白くなり、移植前の症状はほとんどがなくなりました。痛み止めも一切飲んでいません。
娘は私の入院中、突然号泣したことが何度かあったと聞きました。卒業できていた爪噛みが再開したりもしました。
移植後「ママはいしょくしたから生きてるんだよね?」と言ってきたことも。娘ともたくさん出かけたり、楽しい時間を過ごせています。
初心者向けではありますがマラソン大会に一緒に参加し、ゴールをすることもできました。今では小学3年生になりました。本当だったら見ることができなかったかもしれない成長した姿を見守ることができていて、とても幸せです。
あの時、もし弟からの臓器提供が受けられていなかったら・・・私は今、生きていません。ドナーになってくれた弟はリスクを承知で生体移植ドナーを引き受けてくれましたが、術前から今まで一度も私に対して愚痴や負い目を感じさせるようなことを言ってきたことがありません。そのおかげで今も以前と変わらない付き合いをできています。家族や友人などと楽しい時間を過ごすたびに「弟のお陰だな」といつも自然に感謝の気持ちが浮かびます。
以前は当たり前に思っていたことも、今は一つ一つがすごく幸せなことに感じます。
私の難病は再発する可能性が高いと言われています。しかし、例えまた悪化することになっても、弟がくれたこの時間を生きられていることが本当にありがたいです。
病気になってよかったと思うことはこれからも一生ないし、臓器移植以外の治療法があるならそちらを選択したかった。とは思いますが、難病がわかったあの時、移植を迷ったあの時、生きることを諦めなくて本当に良かった。
ドナーになってくれた弟や、サポートしてくれた家族。応援してくださった方々、医療従事者のみなさん、関係者のみなさん、これまで臓器移植の普及のためにご尽力下さったみなさん、そして臓器移植という医療に心から感謝しています。
治療の選択肢があるということは、私に最初の主治医の先生が言ってくださった「死なせんよ(※)」と同じことだと思うのです。
移植医療はすごい治療法です。移植が必要で移植を受けたい方と臓器提供を希望してくださる方たちの思いを『つなげることができる社会』になることを願います。
※追記:「絶対に死なない」ということではなく、「死なずに済むかもしれない」とひとつの希望になるという意味です。
今回のお知らせは以上です。
次回のお知らせでは生体移植についてお伝えしたいと思います。
引き続きどうぞ宜しくお願い致します。

