「転嫁された義」を否定し福音を骨抜きにするN・T・ライト神学を広めないでください。


「転嫁された義」を否定し福音を骨抜きにするN・T・ライト神学を広めないでください。
署名活動の主旨
N・T・ライト神学が日本のクリスチャン、教会に広がっています。ライトに傾倒する牧師、信徒、神学校まであると言います。日本のクリスチャンメディアも無批判にライト神学、ライト自身の発言を報道しているようです。
しかし、ライトに関しては世界のキリスト教界の間で賛否が分かれております。『The Future of JUSTIFICATION』〔邦訳『義認と未来 N・T・ライトに対する応答』(中台孝雄訳、内田和彦監修、いのちのことば社)〕を著し、ライトの信仰義認論に疑問を投げかけたジョン・パイパーもその一人でしょう。日本でも従来の福音信仰を骨抜きにする神学を唱えているとして、ライト神学がクリスチャンの間に広まることを危惧する牧師、信徒が徐々に増えてきています。その一つの動きとして、日本長老教会が「ライトが自身の教えとして特段に提唱する事柄について、全面的に否定せざるを得ない」と結論づける「N・T・ライト神学の検証と評価」(N・T・ライト検討委員会作成)を、2022年11月23日に開催された大会で決議しました。以下のアドレスからダウンロードできます。
https://chorokyokai.jp/wp-content/uploads/2025/03/npp20221123.pdf
この資料、また特に波紋を読んでいるライトの著書『Surprised by Hope』(邦訳『驚くべき希望』中村佐知訳、あめんどう)などを参考に、ライト神学の危険性を四つ挙げさせていただきます。
① ライトは宗教改革の伝統的な「転嫁された義」の教理を否定し、「契約共同体の一員として認められること」というふうに信仰義認の中身をすり替えています。このような理解からは、共同体的な贖いはあっても、個人的な贖いは弱められてしまいます。ライトは、キリストは全世界、全宇宙を贖ったとは言いますが、個々の罪の贖いについてはあまり触れないか、あえて言及を避けているかのようです。すなわち、個人の中での認罪、悔い改め、イエスの十字架の贖いを信じて救われるという福音の流れがぼやけてしまいます。「主イエス・キリストを救い主として信じれば救われる。罪赦され、義と認められる。信じる者に、イエス・キリストの義の衣が着せられる」という単純明快な福音理解が失われてしまうのです。まさに、ルター、カルヴァンなど宗教改革者が聖書から再発見した信仰義認の理解、またその伝統を500年間保持してきたプロテスタント教会の根本的な信仰理解を、根底から覆す危険な神学ではないでしょうか。
② ライトはやがて実現するであろう地上天国と今の世界とのつながりを強調するあまりに、天国の存在を軽んじます。「やがて天と地は一つになる。天国は一時的な場所でしかない」と主張するのです。天国に希望を持つのは愚かだとさえ言っています。その主張の背景には、患難期前携挙説を唱え、「私たちは患難期を通る前に携挙されるのだから、この地上はどうなっても構わない」という社会的責任を果たそうとしないアメリカの根本主義クリスチャンを想定しているようです(保守的な信仰を持ちながらも、社会的責任をしっかり果たしているクリスチャンはいっぱいいるのですが〜)。しかし、その主張ゆえに天国の存在の価値まで矮小化するのはいかがなものでしょうか? 聖書は天国の存在を軽んじてはいないはずです(ヨハネの福音章14章1~4節参照)。パウロはピリピ人への手紙3章20節で「私たちの国籍は天にあります」と語っています(ライトは、これらの聖句に対して独自の解釈を加えて説明はしているようですが)。キリスト教史をひも解けば、激しい苦難を耐えてきたキリシタンがパライソ(天国)に最終的な希望を置き、厳しい迫害下でも微笑みながら死んでいったことが言い伝えられています。黒人奴隷たちは、天国に希望を置くことで、どれだけ地上での苦難の日々を耐えてきたことでしょう。そんな信仰者に対し、「それは間違った希望の持ち方だった」とでも言うのでしょうか?
③ ライトは復活のキリストを強調します。また、この世の悪、サタンに勝利した王としてのキリストを強調します。確かにイエス・キリストはサタンに勝利し、悪の問題を解決された勝利者です。しかし、ここでも人間の個々の罪に対する贖い主としてのキリストについては触れないか、あえて言及を避けている節があります。ウエストミンスター信仰基準では、イエス・キリストの預言者、祭司、王としての三職がバランスよく説明されています。しかし、ライトの著作を読むと、王職を過大に強調するあまりに祭司職、すなわち私たちの罪のために貧しく、弱く、卑しくなられ、十字架の死にまでも従われた小羊キリスト、という一面が疎かにされている印象が否めません。これもまた、プロテスタント教会の基本的な信仰理解を覆す傾向ではないでしょうか。
④ ライトは霊感を受けた聖書と共に、第二神殿時代のユダヤ教文献をもとに新約聖書を解釈することで神学を構築しています。「初代教会のキリスト者の信仰は」「初期のキリスト教の聖書記者は」と、ライトは繰り返し語りますが、その情報の多くはユダヤ教文献によるようです。その結果、その文献をもとに、ヒレル派のラビのガマリエルのもとで教育を受けた(使徒の働き22章3節参照)というパウロの自己証言を否定し、パウロはシャンマイ派であると断定しています。聖書以外の文献が聖書解釈に光を当てることはあります。しかし、その資料に頼りすぎるのは危険ではないでしょうか。ユダヤ教文献はあくまで霊感を受けた聖書66巻とは区別された外部資料でなければなりません。宗教改革以来の聖書解釈の基本は「聖書によって聖書を解釈する」のはずです。ライトはユダヤ教文献に頼るあまりに、聖書の中心的な福音理解を大きく変容させているように思われます。(補足・ライトはマカバイ書、特に第4マカバイ書に注目するが、第4マカバイ書の執筆時期は1世紀半ばから2世紀頃。つまり、イエスもパウロも第4マカバイ書を参照することはできなかった。ゆえにこのユダヤ教文献に現れるイスラエル国家の殉教者に、自分を当てはめたということはありえない。N牧師の指摘)
ライトは、聖書のあらゆる主要教理を否定しているわけではありません。しかし、明らかに主要教理の意味付けや解釈を別のものに置き換えています。まさに、聖書解釈全体のパラダイムシフトにより、私たちが従来信じ受け入れてきた保守的な聖書理解の青写真を書き換えようと目論んでいるかのようです。その結果、王なるキリスト、肉体を伴う復活といったライト好みの教理は強調し、最も重要な教理と言える贖罪、すなわち人間の罪の問題に解決を与えてくれた十字架のキリストには触れようとしないか、ひと言で済ませている傾向が散見されます。
そんなバランスを欠いたライトの著作にも関わらず、読んで感動した、励まされたという人は少なくありません。なぜ感動するのか? 21世紀のこの時代に(正しいか否かは別にしてですか)「今まで封印されていた初代教会のキリスト者たちの信仰をライトが再発見し、その封印を解いた。実はこれまでの聖書理解は西洋哲学の二元論によって歪められていたのだ」といった、何か新しいものに触れた時の興奮、驚きがあるからかもしれません(ただし、そんなに大切な真理であるのならば、慈愛深い神がなぜ21世紀の今日までその真理を封印しなければならなかったのか、ライトによれば間違った理解だとする信仰義認、天国観をなぜ千数百年以上も放置されたのか、という疑問はつきまといます。しかも間違った信仰義認、天国観の理解の下で、リバイバルが世界各地で何度も起こっているのです)。ともあれ、かく言う憂うクリスチャン有志の中にも、最初は感動したという人がいます。しかし、ライトの著作をいろいろ読んでいくうちに、疑問符(?)もいっぱいついてくるのです。なぜなら、従来の聖書の教えの中身とかなり違っているからです。それでも、疑問符がつくものであっても「聖書理解の新しい光だ」と言われれば、人々は興奮するものです。しかし、それは真理か否かも分からない、あくまで疑問符つきの聖書観なのです。
また、ライト神学は、この世界、全宇宙の悪を贖う王なるキリストに焦点が当てられる一方で、繰り返しになりますが、個々の罪の問題にはあまり触れない印象を受けます。そのため、自分自身の罪の問題と向き合わなくて済むのです。その分、いい気持ちにさせてくれる神学なのかもしれません。しかし、認罪と悔い改めという痛い経験を通った上で、イエスを信じる信仰により神の赦しと和解を受け取ることは、どんなに強調してもし過ぎることのない重要な教理のはずです。もし、私たちが疑問符つきの聖書観に立ち続けるのならば、時間とともに様々な副作用が現れ、いずれ取り返しのつかない事態が起きてくることが予想されます。
ライト神学に傾倒するということは結局、どういう結果をもたらすことになるのでしょうか? ライトが肉体を伴った復活やこの地の贖いにフォーカスを当てて論じ、現実世界におけるキリスト者の社会的責任の使命を強調した点は学ぶべきかもしれません。しかし半面、私たちが当然のように信じ、大きな恵み、慰め、励ましを受け、大切にしてきた信仰義認(転嫁された義)、天国の希望の教理がバッサリと切り捨てられてしまう、人の罪の問題が棚上げにされてしまうのです。また、ライト神学が浸透することによって、すでに罪が、天国の希望が、福音が、大胆に語られなくなったといった兆候も出てきていると聞きます。
神学者ラインホルト・ニーバーは「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」と語っています。ライトは特に「変えられない」「絶対に変えてはいけない」領域にかなり踏み込んでいるように思えてなりません。そういう意味で、ライト神学に傾倒する方々には、特に「変えられないものを受け入れる冷静さ」を強く求めます。
以上の理由から、N・T・ライト神学が広がることを憂う私たちクリスチャン有志は、ライトの著作を読むことを勧めたり、ライト神学を教えることに反対の意を表明すると共に、もうこれ以上ライト神学を広めないよう訴えます。
2024年9月20日 N・T・ライト神学を憂うクリスチャン有志
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署名活動の主旨
N・T・ライト神学が日本のクリスチャン、教会に広がっています。ライトに傾倒する牧師、信徒、神学校まであると言います。日本のクリスチャンメディアも無批判にライト神学、ライト自身の発言を報道しているようです。
しかし、ライトに関しては世界のキリスト教界の間で賛否が分かれております。『The Future of JUSTIFICATION』〔邦訳『義認と未来 N・T・ライトに対する応答』(中台孝雄訳、内田和彦監修、いのちのことば社)〕を著し、ライトの信仰義認論に疑問を投げかけたジョン・パイパーもその一人でしょう。日本でも従来の福音信仰を骨抜きにする神学を唱えているとして、ライト神学がクリスチャンの間に広まることを危惧する牧師、信徒が徐々に増えてきています。その一つの動きとして、日本長老教会が「ライトが自身の教えとして特段に提唱する事柄について、全面的に否定せざるを得ない」と結論づける「N・T・ライト神学の検証と評価」(N・T・ライト検討委員会作成)を、2022年11月23日に開催された大会で決議しました。以下のアドレスからダウンロードできます。
https://chorokyokai.jp/wp-content/uploads/2025/03/npp20221123.pdf
この資料、また特に波紋を読んでいるライトの著書『Surprised by Hope』(邦訳『驚くべき希望』中村佐知訳、あめんどう)などを参考に、ライト神学の危険性を四つ挙げさせていただきます。
① ライトは宗教改革の伝統的な「転嫁された義」の教理を否定し、「契約共同体の一員として認められること」というふうに信仰義認の中身をすり替えています。このような理解からは、共同体的な贖いはあっても、個人的な贖いは弱められてしまいます。ライトは、キリストは全世界、全宇宙を贖ったとは言いますが、個々の罪の贖いについてはあまり触れないか、あえて言及を避けているかのようです。すなわち、個人の中での認罪、悔い改め、イエスの十字架の贖いを信じて救われるという福音の流れがぼやけてしまいます。「主イエス・キリストを救い主として信じれば救われる。罪赦され、義と認められる。信じる者に、イエス・キリストの義の衣が着せられる」という単純明快な福音理解が失われてしまうのです。まさに、ルター、カルヴァンなど宗教改革者が聖書から再発見した信仰義認の理解、またその伝統を500年間保持してきたプロテスタント教会の根本的な信仰理解を、根底から覆す危険な神学ではないでしょうか。
② ライトはやがて実現するであろう地上天国と今の世界とのつながりを強調するあまりに、天国の存在を軽んじます。「やがて天と地は一つになる。天国は一時的な場所でしかない」と主張するのです。天国に希望を持つのは愚かだとさえ言っています。その主張の背景には、患難期前携挙説を唱え、「私たちは患難期を通る前に携挙されるのだから、この地上はどうなっても構わない」という社会的責任を果たそうとしないアメリカの根本主義クリスチャンを想定しているようです(保守的な信仰を持ちながらも、社会的責任をしっかり果たしているクリスチャンはいっぱいいるのですが〜)。しかし、その主張ゆえに天国の存在の価値まで矮小化するのはいかがなものでしょうか? 聖書は天国の存在を軽んじてはいないはずです(ヨハネの福音章14章1~4節参照)。パウロはピリピ人への手紙3章20節で「私たちの国籍は天にあります」と語っています(ライトは、これらの聖句に対して独自の解釈を加えて説明はしているようですが)。キリスト教史をひも解けば、激しい苦難を耐えてきたキリシタンがパライソ(天国)に最終的な希望を置き、厳しい迫害下でも微笑みながら死んでいったことが言い伝えられています。黒人奴隷たちは、天国に希望を置くことで、どれだけ地上での苦難の日々を耐えてきたことでしょう。そんな信仰者に対し、「それは間違った希望の持ち方だった」とでも言うのでしょうか?
③ ライトは復活のキリストを強調します。また、この世の悪、サタンに勝利した王としてのキリストを強調します。確かにイエス・キリストはサタンに勝利し、悪の問題を解決された勝利者です。しかし、ここでも人間の個々の罪に対する贖い主としてのキリストについては触れないか、あえて言及を避けている節があります。ウエストミンスター信仰基準では、イエス・キリストの預言者、祭司、王としての三職がバランスよく説明されています。しかし、ライトの著作を読むと、王職を過大に強調するあまりに祭司職、すなわち私たちの罪のために貧しく、弱く、卑しくなられ、十字架の死にまでも従われた小羊キリスト、という一面が疎かにされている印象が否めません。これもまた、プロテスタント教会の基本的な信仰理解を覆す傾向ではないでしょうか。
④ ライトは霊感を受けた聖書と共に、第二神殿時代のユダヤ教文献をもとに新約聖書を解釈することで神学を構築しています。「初代教会のキリスト者の信仰は」「初期のキリスト教の聖書記者は」と、ライトは繰り返し語りますが、その情報の多くはユダヤ教文献によるようです。その結果、その文献をもとに、ヒレル派のラビのガマリエルのもとで教育を受けた(使徒の働き22章3節参照)というパウロの自己証言を否定し、パウロはシャンマイ派であると断定しています。聖書以外の文献が聖書解釈に光を当てることはあります。しかし、その資料に頼りすぎるのは危険ではないでしょうか。ユダヤ教文献はあくまで霊感を受けた聖書66巻とは区別された外部資料でなければなりません。宗教改革以来の聖書解釈の基本は「聖書によって聖書を解釈する」のはずです。ライトはユダヤ教文献に頼るあまりに、聖書の中心的な福音理解を大きく変容させているように思われます。(補足・ライトはマカバイ書、特に第4マカバイ書に注目するが、第4マカバイ書の執筆時期は1世紀半ばから2世紀頃。つまり、イエスもパウロも第4マカバイ書を参照することはできなかった。ゆえにこのユダヤ教文献に現れるイスラエル国家の殉教者に、自分を当てはめたということはありえない。N牧師の指摘)
ライトは、聖書のあらゆる主要教理を否定しているわけではありません。しかし、明らかに主要教理の意味付けや解釈を別のものに置き換えています。まさに、聖書解釈全体のパラダイムシフトにより、私たちが従来信じ受け入れてきた保守的な聖書理解の青写真を書き換えようと目論んでいるかのようです。その結果、王なるキリスト、肉体を伴う復活といったライト好みの教理は強調し、最も重要な教理と言える贖罪、すなわち人間の罪の問題に解決を与えてくれた十字架のキリストには触れようとしないか、ひと言で済ませている傾向が散見されます。
そんなバランスを欠いたライトの著作にも関わらず、読んで感動した、励まされたという人は少なくありません。なぜ感動するのか? 21世紀のこの時代に(正しいか否かは別にしてですか)「今まで封印されていた初代教会のキリスト者たちの信仰をライトが再発見し、その封印を解いた。実はこれまでの聖書理解は西洋哲学の二元論によって歪められていたのだ」といった、何か新しいものに触れた時の興奮、驚きがあるからかもしれません(ただし、そんなに大切な真理であるのならば、慈愛深い神がなぜ21世紀の今日までその真理を封印しなければならなかったのか、ライトによれば間違った理解だとする信仰義認、天国観をなぜ千数百年以上も放置されたのか、という疑問はつきまといます。しかも間違った信仰義認、天国観の理解の下で、リバイバルが世界各地で何度も起こっているのです)。ともあれ、かく言う憂うクリスチャン有志の中にも、最初は感動したという人がいます。しかし、ライトの著作をいろいろ読んでいくうちに、疑問符(?)もいっぱいついてくるのです。なぜなら、従来の聖書の教えの中身とかなり違っているからです。それでも、疑問符がつくものであっても「聖書理解の新しい光だ」と言われれば、人々は興奮するものです。しかし、それは真理か否かも分からない、あくまで疑問符つきの聖書観なのです。
また、ライト神学は、この世界、全宇宙の悪を贖う王なるキリストに焦点が当てられる一方で、繰り返しになりますが、個々の罪の問題にはあまり触れない印象を受けます。そのため、自分自身の罪の問題と向き合わなくて済むのです。その分、いい気持ちにさせてくれる神学なのかもしれません。しかし、認罪と悔い改めという痛い経験を通った上で、イエスを信じる信仰により神の赦しと和解を受け取ることは、どんなに強調してもし過ぎることのない重要な教理のはずです。もし、私たちが疑問符つきの聖書観に立ち続けるのならば、時間とともに様々な副作用が現れ、いずれ取り返しのつかない事態が起きてくることが予想されます。
ライト神学に傾倒するということは結局、どういう結果をもたらすことになるのでしょうか? ライトが肉体を伴った復活やこの地の贖いにフォーカスを当てて論じ、現実世界におけるキリスト者の社会的責任の使命を強調した点は学ぶべきかもしれません。しかし半面、私たちが当然のように信じ、大きな恵み、慰め、励ましを受け、大切にしてきた信仰義認(転嫁された義)、天国の希望の教理がバッサリと切り捨てられてしまう、人の罪の問題が棚上げにされてしまうのです。また、ライト神学が浸透することによって、すでに罪が、天国の希望が、福音が、大胆に語られなくなったといった兆候も出てきていると聞きます。
神学者ラインホルト・ニーバーは「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」と語っています。ライトは特に「変えられない」「絶対に変えてはいけない」領域にかなり踏み込んでいるように思えてなりません。そういう意味で、ライト神学に傾倒する方々には、特に「変えられないものを受け入れる冷静さ」を強く求めます。
以上の理由から、N・T・ライト神学が広がることを憂う私たちクリスチャン有志は、ライトの著作を読むことを勧めたり、ライト神学を教えることに反対の意を表明すると共に、もうこれ以上ライト神学を広めないよう訴えます。
2024年9月20日 N・T・ライト神学を憂うクリスチャン有志
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2024年9月19日に作成されたオンライン署名
