【オフトーク(Off-talk)・その3】 海外におけるがん治療医・血液内科医の現状


本活動をご支援いただいている皆様
日曜日の朝早くから、失礼いたします。
西日本では梅雨明けも宣言され、早くも猛暑の毎日となっていますが、そろそろ夏休みの計画をされている方もお見えのことと存じます。私のように「昭和バブル時代」を経験している世代は、大学生の頃、夏休みに海外旅行に出かける友人たちをいつも羨望のまなざしで見ていた記憶が残像のように浮かんできます。血液内科医となり、初めて日本を飛び出て、国際学会で発表をする機会を得た時には、「世界の医学の進歩」がとても速いことに驚き、毎年、国際学会で勉強しなければならないと誓ったのですが、最近は、医療を取り巻く環境の変化や長期の円高の影響により、中々海外の学会に行く機会を作ることができません😭。
これまで日本の診療報酬や専門医の問題を紹介してきましたが、そもそもこの署名活動の目標である「どの地域に住んでいても、質の高いがん医療を受けられる社会」を実現できている国はあるのでしょうか?
実は、あまり国内では知られていないことですが、「がん治療医・血液内科医不足」は、世界共通の「グローバルな医療崩壊リスク」であり、日本と海外の相違は、この問題がどれだけ深刻であるかが国民にどれほど強く訴えられているか、そして国民が「自分の問題」として現状を改革するための市民運動などを行っているかです。
まず、一般に、世界最先端のがん医療を提供していると信じられている米国の実情を見てみましょう。
もっとも客観的で信頼できるデータを発信しているのは、がん治療に携わる医師は必ず知っている世界最高峰の学会である「米国臨床腫瘍学会(ASCO)」が毎年発行している包括的報告書(The State of Cancer Care in America)です。この報告書では、すでに2010年代より、がん治療の需要の増加に専門医の養成が追いついておらず、がん治療医の高齢化、大きなセンター施設以外のがん治療施設への経済的負担の増大、などの問題を警告し続けています。
最近の報告書では、人口の高齢化に伴い2050年までにがん患者数は現在の50%以上増加すると予測されているにもかかわらず、人口に対するがん薬物療法医や血液内科の人数は、むしろ減少傾向にあるとされています。そのためASCOは、政策立案者に対して、より良いがん治療を提供するシステムや、がん治療専門医の「質の担保」などに関する提案や要求を行っています。ちなみに、米国でも、がん治療専門医の約2/3が都市部に集中しており、「がん治療医が一人も存在しない地域」が多数存在しています。しかも、現役のがん治療医のおよそ20%が64歳以上と報告されており、日本と同様に若手医師の育成が間に合っていないことも大きな課題になっています。
イギリスはNHS(国民保健サービス)による完全国営医療であることを、先日のオフトーク#2でお伝えしましたが、主要先進国の中でがん治療医の不足がもっとも深刻な国と見られています。このまま対策を講じなければ、2030年までにがん薬物療法医の不足率は26%にまで跳ね上がるとまで試算されています。その原因をさかのぼると、1980年代に行われた保守党のマーガレット・サッチャー首相による大きな「医療制度改革」(結果的に「改悪」)が引き金であったというのが、医療経済学の専門家による共通の見解です。サッチャー首相は政治理念として「新自由主義(ネオリベラリズム)」を掲げ、個人の自己責任と市場の競争原理を強化することにより「社会を効率化する」ことが可能と考えていました。そこで、さまざまな産業は、「競争」というものさしで図られるようになり、その中でも公共性が高いため多くの国家予算を要する「医療」の分野にも市場原理が強く導入されたのです。そのため、NHSにおける医療提供システムに大きなメスが入れられ、以下のような「制度改革」が断行されました。
1. 医療費の伸びを徹底的に抑え、病院の予算を制限する。
2. 医療を「計画・購入する組織(バイヤー)」と「提供する病院(プロバイダー)」に切り離し、病院同士を競争させる仕組みを導入し、病院の企業化を進める(「内部市場」の導入)。
3. 医師の専門職としての病院経営決定権を医師以外の「プロの経営コンサルタントやマネージャー」に移管する。
4. 医療への国からの公的支出を徹底的に抑制し、民間医療保険や民間クリニック(自由診療)の活用を推奨する。
これらの「改革」の結果、病院は国からの予算で運営される公的機関から、独立採算制を求められる「NHSトラスト(独立事業体)」へと変貌しました。これにより、各病院は生存をかけて「いかに効率よく、安く医療を提供するか」というビジネスのような経営を強いられるようになります。現場の医療従事者の待遇も悪化したため、モチベーションも大きく低下し、優秀な医師が海外に流出することを加速してしまいました。実際に、数週間〜数ヶ月におよぶ検査待ちや診断の遅れによって、「治療が始まる前に患者さんの病状が悪化してしまう」事例が相次ぎ、深刻な社会問題となりました。皆様も、その当時、日本でも良く報道されていた、イギリスの病院では大量の患者の行列ができている映像をご記憶されているでしょう。特に腫瘍内科や血液内科のような高度で個別化された治療を行いたい医師と、コストをカットしたい経営職との間では、長年にわたって緊張関係が続いています。
そのようなサッチャー首相のNHS改革の「負の遺産」と、それを立て直そうとした労働党トニー・ブレア首相の医療政策の見直しの結果について、詳細をお知りになりたい方には、次の一冊がおすすめです。
『公平・無料・国営を貫く 英国の医療改革』 武内 和久・竹之下 泰志(集英社新書, 2009年7月)
もちろん、現在のイギリスにおけるがん治療医・血液内科医不足の原因を、1980年代のサッチャー政権時代の医療制度改革だけで全て説明することはできません。わが国と同様に、人口の高齢化や医療技術の高度化、新型コロナウイルスパンデミックの影響、医療従事者の働き方をめぐる問題など、さまざまな要因が複雑に重なり合って現在の状況が生じていると思われます。しかし、多くの医療政策研究者が共通して指摘しているのは、医療制度の大きな方向転換は、その後何十年にもわたり医療提供体制や医療人材の育成に影響を及ぼし続けるということです。たとえばわが国においても、2004年の新臨床研修制度の導入が、その後の地方の医師不足や診療科の偏在など医師の需給バランスに、長期にわたり影響を及ぼしてきた可能性があることは、多くの識者による研究や議論で指摘されています。その意味で、サッチャー政権下で導入された一連の制度改革は、現在のイギリス医療を考えるうえでも重要な歴史的転換点の一つとして位置づけられています。
現在のイギリスでは、あまりに過酷な労働環境から、がん治療医・血液内科のトップクラスの指導医や専門医が次々と早期引退を選んでいます。最近の統計では、がん薬物療法医の平均引退年齢が、わずか1年の間に59歳から54歳へと急激に若年化したことが報告されています。今後5年間で現役の専門医の約20%が退職すると見込まれており、次世代への継承が不可能なのではないかと危ぶまれています。
なお、同国が誇る、世界でもっとも権威が高い学術誌のひとつである『The Lancet Oncology Commission』誌では、2050年までに世界全体で約1億人のがん医療従事者(医師、看護師、放射線・病理診断スタッフなど)が不足するとの衝撃的な予測が報告されています。このままでは、がん患者が適切な診断や治療を受けられない地域がさらに拡大することが懸念されています(最も深刻な影響を受けるのはアフリカとアジアと推測されています)。
不思議に思えることは、「国民皆保険制度のもとで医療の公平性を守る」ことを使命としているわが国の医療政策においても、「医療費抑制」・「集約化」・「効率化」など、まるでサッチャー政権のイギリスのような言葉がしばしば出てきていることです。
今回ご紹介した米国・イギリスのがん治療医不足の現状は、あくまで私が目にした資料だけに基づいた内容となっておりますので、一部に正確な事実認識ができていないところがあるかもしれないことをお許しください。ぜひ皆様のお考えとご意見もお聞きしたいと思います。
一戸辰夫(「若手がん治療医・血液内科医を支援する会」発起人)[連絡先:tatsuo.ichinohe@icloud.com いつでも皆様からの建設的ご批判・ご意見をお待ちしています](なお、このオフ・トークの内容はあくまで一戸個人の見解であり、本署名活動のサポーター方々や後援団体の立場を表明するものではありません。)