現存する最古のアズマダチと新湊の歴史を残したい。

この方々が賛同しました
神名 繁さんと19名の他の方が最近賛同しました。

署名活動の主旨

 

 

 

 

 

「守りたい、ふるさとの風景」

越中で見られる伝統建築アズマダチ。

中でもこの建物は加賀藩政期の規制の中で建てられた「初期アズマダチ」と呼ばれるもので富山県内で現存する最古のアズマダチです。

昨年夏から期間を区切って公開をし、一部を「放生津北前船資料館」として展示室を設けました。

「初期アズマダチ」の特徴は、緩やかな傾斜の切妻屋根。

棟梁は名宮大工・高瀬輔太郎と伝えられます。輔太郎は、幕末に大阪城二の丸の修繕にも加わった名高い大工で、その大工集団の歴史は戦国時代まで遡ります。

幾度もの地震にも耐え抜いた堅牢な造作は、確かな技によるものとあらためて実感させられます。

明治維新直後には、後の有栖川宮妃となられた前田慰子姫君をこの屋敷でお預かりし、その居室や髪結いの部屋などを、放生津綿屋彦九郎家が150年以上もの間そのまま大切に守ってきました。

時代は流れ、文化や歴史を現在に遺すことは容易ではなくなりましたが、故郷の歴史を実際に手で触れ、目で見ることができる歴史的建造物が今に残っているということには大きな意義があります。

この建物、この風景、この歴史を失ってしまうことは、郷土の歩みの記憶を永遠に失ってしまうこととなります。

外観だけではなく、その時代何が起こっていたのかを、きちんと後世にのこしていかなくてはなりません。自分たちの町の記憶を残していくことは、今を生きる人々も責任でもあると思います。

是非、ご協力をよろしくお願い致します。

 

放生津綿屋ホームページ→https://kitamae-wataya.com
(時間に埋もれたふるさとの物語を掘起し紹介しています)

 

【注意事項】
*ご署名いただくと署名サイトの機能上、寄付を呼び掛ける画面が表示されますが、こちらは署名の呼びかけ人から寄付をお願いするものではありません。ご署名だけで結構です。

*ご署名後、署名サイトの方より再度寄付を呼び掛けるメールが届きますが、そちらのメールの趣旨は、「この署名活動を寄付によりプロモーション(宣伝)することができますよ、いかがですか」というもので署名サイト上で自動的にメールが送られます。ご署名だけで結構です。

*本件とは別の署名活動の内容が届くこともあり、こちらのメールを配信停止することができます。配信メール最下部にあります「Change.orgからのEメールをすべて停止する」をクリックすることで配信停止が完了します。

 

【放生津とは…】

放生津は古くから海人の大集落が形成され、万葉の頃には大伴家持、南北朝動乱の頃には後醍醐天皇の皇子宗良親王、室町期には将軍足利義材がこの地で5年に渡り政務を執るなど、歴史のある町です。

そして江戸期には、加賀藩の年貢米を大阪へ廻送するため、放生津の船乗りたちが大活躍するようになり、「放生津」の名は日本海から瀬戸内、そして北海道の各地の湊に知られるようになります。これが「北前船」です。

加賀の銭屋五兵衛と並び称せられた北前船主・放生津綿屋宮林家は、天正年間に砺波から放生津へと移り住み、現在まで400余年の時を放生津で過ごしました。幾時代を超え、天災、戦禍を逃れ、江戸時代末期の姿そのままに今日まで繋ぐことができたのは、ただただ幸運としか言えません。

しかし残念ながら、地方都市における厳しい環境、令和6年元日に起こった能登半島地震に直面し、ついに自力でその歴史と風景を保存していくことが出来なくなりました。

江戸期の伝統建築、港町で花開いた文化、地方都市が直面した文明開化、岩崎弥太郎率いる三菱汽船と戦った海運史上に残る壮絶なバトル、無情に押し寄せる富山湾の❝寄り回り波❞と呼ばれる高波との闘い…。まだまだ埋もれた歴史がたくさんあります。

その歴史と放生津の風景を後世へ残したい。

その為に、同じ気持ちを持つ方々の声を集める必要があります。

そして、賛同者さまにいただいたご署名を携えて企業・団体、個人様をまわり、保存と利活用に向け、ご助力、ご協力をお願いさせていただく所存です。

放生津の歴史と風景の保存への道を開くために、ご賛同いただけましたら、ご署名いただけますこと、よろしくお願い致します。

 

放生津綿屋ホームページ↓↓↓「新湊物語」で検索をお願いします。https://kitamae-wataya.com

 

"I want to preserve, the scenery of my hometown,Hojozu"

Hojozu has a long history as a large seafaring community, with Otomo Yakamochi during the Manyo period, Prince Muneyoshi of Emperor Godaigo during the Nanbokucho uprising, and Shogun Ashikaga Yoshiki during the Muromachi period, who served as a government minister here for five years.

In the Edo period (1603-1867), sailors from Hojozu became very active in transporting the Kaga Clan's annual tribute of rice to Osaka, and the name "Hojozu" became known from the Sea of Japan to the Seto Inland Sea and to various ports in Hokkaido. This was the "Kitamae-bune" (Kitamae ship).

The Hojozu Wataya Miyabayashi , the Kitamae shipowners, who were called alongside Zeniya Gohei of Kaga, moved from Tonami to Hojozu in the Tensho era, and lived in Hojozu for more than 400 years up to the present. It is only fortunate that the family has escaped natural disasters and wars over the ages, and to maintain its original appearance from the end of the Edo period to the present day.

Unfortunately, however, in the face of the harsh environment in the regional city and the Noto Peninsula earthquakeon the first day of 2024 , it has finally become unable to preserve its history and landscape on its own.

The traditional architecture of the Edo period, the culture that blossomed in the port town, the civilisation of the local city, the epic battles in maritime history against Mitsubishi Kisen led by Yataro Iwasaki,the battle against the high waves of Toyama Bay, known as the "turning waves", that came rushing in mercilessly... There is still much buried history to be discovered.

We want to preserve its history and the landscape of Hojozu for future generations.

To do this, we need to gather the voices of people who feel the same way.

We will then visit companies, organisations and individuals with the signatures of our supporters to ask for their help and cooperation in the preservation and utilisation of the material.

If you agree, please kindly sign the petition!

Hojozu-wataya 16th daughter YASUKO HORII

 

 

 

【綿屋彦九郎 沿革

綿屋彦九郎家は、漁具を編むための藁や縄など藁工品を砺波から放生津へ供給しており、天正の大地震(1586 年)を機に、砺波の宮村から放生津へ移住したと伝えられています。

その後、網元となり漁場経営に着手、さらに加賀藩の方針転換により自船所有が認められ、廻船業へも乗り出し、藩米の輸送を担うようになりました。

北海道と瀬戸内海経由で大坂を結ぶ北前船交易で成功し、加賀藩の御用商人、銭屋五兵衛と並び、加賀藩の調達金に応じて、後の北陸銀行の前身、第十二国立銀行の創設家の一つとなりました。(加賀藩士他、木谷藤右衛門、島崎徳兵衛、伏木能登屋藤井能三、放生津綿屋宮林彦九郎)

 

加賀藩から綿の納入を一手に任されていたことなどから、深く藩の台所と結びついていたと思われ、明治維新後、最後の加賀藩主・前田慶寧公の四女、慰子姫を、幼少のある時期に預かることとなり、当家の総檜の奥の間は、姫君御養育の為に造作されたと伝えられています。

東西約60m、南北約 70mの綿屋宮林邸には、海から直接船が蔵に横付けできるよう、かつては屋敷の周囲に堀がめぐらされおり、現在もその姿の一端を目にすることができます。

 

【綿屋宮林邸の現在 】
 

 昭和45年前後に重要文化財指定候補に高岡市太田の武田家とともに選定されたものの、18 世紀の農家の姿をそのままに残す武田家住宅が県指定重要文化財に決定しました。当家は登録有形文化財には登録していません。 

 文化財は原則、所有者がその保存に努めると文化庁の指針で示されておりますが、広い敷地に伴う固定資産税、相続税の税の圧迫に加え、連帯保証人となっていた親族の経営する会社の倒産に直面しており、所有者自身での保存が困難な状況に陥りました。 

 

以下、親族会社の経営危機が伝えられて以降の経緯です。

 

2021年年末 債権者から抵当権設定の話があり射水市に相談

2022年春  外国人ホテル経営者への売却の話が射水市より持ち込まれる

2022年夏  夏野市長、外国人ホテル経営者一行来訪

2022年秋~ 建築士、米国人投資家来訪

2023年春  

2023年夏  東京の不動産会社一行来訪

2024年正月 能登半島地震

      親族の経営会社閉業

 

正月早々に起きた能登半島地震が弱り切った経営に追い打ちをかけ、挽回することもなく閉業となりました。残された時間は多くはありません。

 

【残したい、守りたい、射水放生津の風景 】
 

放生津は、古くより射水平野の米の集積地であり越中の中核を担った湊でしたが、海岸の浸食により沿岸の風景も一変し、かつては川や水路が幾筋とあった町の景色も今ではほとんど失われてしまいました。現在は、内川と綿屋宮林家の周囲の堀に、その水路の面影をわずかに見ることができます。これは、郷土の歴史を後世に伝えるために絶対に残すべき風景であると考えます。

 江戸から明治への時代の大変革期、旧加賀藩領の政治、経済も大混乱な状況下にありました。その時代の越中において、その改革の一翼を担ったのが、伏木の能登屋藤井能三と放生津綿屋宮林彦九郎でした。放生津における文明開化期の歴史のほぼ全てを綿屋はその身にまとっています。

 

 この度、「放生津八幡宮の曳山・築山行事」が、国重要無形民俗文化財に指定されました。故郷の伝統を長きにわたって大切に守り続けてこられたその思いには敬服するばかりです。伝統的な獅子舞もあります。獅子舞を愛してやまない青年がこう話してくれました。「舞っていると、先祖と一体になれる感覚があるんです。だからやめられないんです」

歴史や伝統を後世に残す意味はここにあると思います。文化的遺産により過去を知り、先人の心を知ることで郷土愛が育まれ、地域社会に奉仕する気持ちが生まれます。

地域の力で地域の歴史を残したい、守りたい。そのために何ができるだろう。難しい挑戦とは思いますが、チャレンジするだけです。

ご署名のご協力を何卒よろしくお願い致します。

 

放生津綿屋宮林彦九郎16代目長女 堀井泰子

1,379

この方々が賛同しました
神名 繁さんと19名の他の方が最近賛同しました。

署名活動の主旨

 

 

 

 

 

「守りたい、ふるさとの風景」

越中で見られる伝統建築アズマダチ。

中でもこの建物は加賀藩政期の規制の中で建てられた「初期アズマダチ」と呼ばれるもので富山県内で現存する最古のアズマダチです。

昨年夏から期間を区切って公開をし、一部を「放生津北前船資料館」として展示室を設けました。

「初期アズマダチ」の特徴は、緩やかな傾斜の切妻屋根。

棟梁は名宮大工・高瀬輔太郎と伝えられます。輔太郎は、幕末に大阪城二の丸の修繕にも加わった名高い大工で、その大工集団の歴史は戦国時代まで遡ります。

幾度もの地震にも耐え抜いた堅牢な造作は、確かな技によるものとあらためて実感させられます。

明治維新直後には、後の有栖川宮妃となられた前田慰子姫君をこの屋敷でお預かりし、その居室や髪結いの部屋などを、放生津綿屋彦九郎家が150年以上もの間そのまま大切に守ってきました。

時代は流れ、文化や歴史を現在に遺すことは容易ではなくなりましたが、故郷の歴史を実際に手で触れ、目で見ることができる歴史的建造物が今に残っているということには大きな意義があります。

この建物、この風景、この歴史を失ってしまうことは、郷土の歩みの記憶を永遠に失ってしまうこととなります。

外観だけではなく、その時代何が起こっていたのかを、きちんと後世にのこしていかなくてはなりません。自分たちの町の記憶を残していくことは、今を生きる人々も責任でもあると思います。

是非、ご協力をよろしくお願い致します。

 

放生津綿屋ホームページ→https://kitamae-wataya.com
(時間に埋もれたふるさとの物語を掘起し紹介しています)

 

【注意事項】
*ご署名いただくと署名サイトの機能上、寄付を呼び掛ける画面が表示されますが、こちらは署名の呼びかけ人から寄付をお願いするものではありません。ご署名だけで結構です。

*ご署名後、署名サイトの方より再度寄付を呼び掛けるメールが届きますが、そちらのメールの趣旨は、「この署名活動を寄付によりプロモーション(宣伝)することができますよ、いかがですか」というもので署名サイト上で自動的にメールが送られます。ご署名だけで結構です。

*本件とは別の署名活動の内容が届くこともあり、こちらのメールを配信停止することができます。配信メール最下部にあります「Change.orgからのEメールをすべて停止する」をクリックすることで配信停止が完了します。

 

【放生津とは…】

放生津は古くから海人の大集落が形成され、万葉の頃には大伴家持、南北朝動乱の頃には後醍醐天皇の皇子宗良親王、室町期には将軍足利義材がこの地で5年に渡り政務を執るなど、歴史のある町です。

そして江戸期には、加賀藩の年貢米を大阪へ廻送するため、放生津の船乗りたちが大活躍するようになり、「放生津」の名は日本海から瀬戸内、そして北海道の各地の湊に知られるようになります。これが「北前船」です。

加賀の銭屋五兵衛と並び称せられた北前船主・放生津綿屋宮林家は、天正年間に砺波から放生津へと移り住み、現在まで400余年の時を放生津で過ごしました。幾時代を超え、天災、戦禍を逃れ、江戸時代末期の姿そのままに今日まで繋ぐことができたのは、ただただ幸運としか言えません。

しかし残念ながら、地方都市における厳しい環境、令和6年元日に起こった能登半島地震に直面し、ついに自力でその歴史と風景を保存していくことが出来なくなりました。

江戸期の伝統建築、港町で花開いた文化、地方都市が直面した文明開化、岩崎弥太郎率いる三菱汽船と戦った海運史上に残る壮絶なバトル、無情に押し寄せる富山湾の❝寄り回り波❞と呼ばれる高波との闘い…。まだまだ埋もれた歴史がたくさんあります。

その歴史と放生津の風景を後世へ残したい。

その為に、同じ気持ちを持つ方々の声を集める必要があります。

そして、賛同者さまにいただいたご署名を携えて企業・団体、個人様をまわり、保存と利活用に向け、ご助力、ご協力をお願いさせていただく所存です。

放生津の歴史と風景の保存への道を開くために、ご賛同いただけましたら、ご署名いただけますこと、よろしくお願い致します。

 

放生津綿屋ホームページ↓↓↓「新湊物語」で検索をお願いします。https://kitamae-wataya.com

 

"I want to preserve, the scenery of my hometown,Hojozu"

Hojozu has a long history as a large seafaring community, with Otomo Yakamochi during the Manyo period, Prince Muneyoshi of Emperor Godaigo during the Nanbokucho uprising, and Shogun Ashikaga Yoshiki during the Muromachi period, who served as a government minister here for five years.

In the Edo period (1603-1867), sailors from Hojozu became very active in transporting the Kaga Clan's annual tribute of rice to Osaka, and the name "Hojozu" became known from the Sea of Japan to the Seto Inland Sea and to various ports in Hokkaido. This was the "Kitamae-bune" (Kitamae ship).

The Hojozu Wataya Miyabayashi , the Kitamae shipowners, who were called alongside Zeniya Gohei of Kaga, moved from Tonami to Hojozu in the Tensho era, and lived in Hojozu for more than 400 years up to the present. It is only fortunate that the family has escaped natural disasters and wars over the ages, and to maintain its original appearance from the end of the Edo period to the present day.

Unfortunately, however, in the face of the harsh environment in the regional city and the Noto Peninsula earthquakeon the first day of 2024 , it has finally become unable to preserve its history and landscape on its own.

The traditional architecture of the Edo period, the culture that blossomed in the port town, the civilisation of the local city, the epic battles in maritime history against Mitsubishi Kisen led by Yataro Iwasaki,the battle against the high waves of Toyama Bay, known as the "turning waves", that came rushing in mercilessly... There is still much buried history to be discovered.

We want to preserve its history and the landscape of Hojozu for future generations.

To do this, we need to gather the voices of people who feel the same way.

We will then visit companies, organisations and individuals with the signatures of our supporters to ask for their help and cooperation in the preservation and utilisation of the material.

If you agree, please kindly sign the petition!

Hojozu-wataya 16th daughter YASUKO HORII

 

 

 

【綿屋彦九郎 沿革

綿屋彦九郎家は、漁具を編むための藁や縄など藁工品を砺波から放生津へ供給しており、天正の大地震(1586 年)を機に、砺波の宮村から放生津へ移住したと伝えられています。

その後、網元となり漁場経営に着手、さらに加賀藩の方針転換により自船所有が認められ、廻船業へも乗り出し、藩米の輸送を担うようになりました。

北海道と瀬戸内海経由で大坂を結ぶ北前船交易で成功し、加賀藩の御用商人、銭屋五兵衛と並び、加賀藩の調達金に応じて、後の北陸銀行の前身、第十二国立銀行の創設家の一つとなりました。(加賀藩士他、木谷藤右衛門、島崎徳兵衛、伏木能登屋藤井能三、放生津綿屋宮林彦九郎)

 

加賀藩から綿の納入を一手に任されていたことなどから、深く藩の台所と結びついていたと思われ、明治維新後、最後の加賀藩主・前田慶寧公の四女、慰子姫を、幼少のある時期に預かることとなり、当家の総檜の奥の間は、姫君御養育の為に造作されたと伝えられています。

東西約60m、南北約 70mの綿屋宮林邸には、海から直接船が蔵に横付けできるよう、かつては屋敷の周囲に堀がめぐらされおり、現在もその姿の一端を目にすることができます。

 

【綿屋宮林邸の現在 】
 

 昭和45年前後に重要文化財指定候補に高岡市太田の武田家とともに選定されたものの、18 世紀の農家の姿をそのままに残す武田家住宅が県指定重要文化財に決定しました。当家は登録有形文化財には登録していません。 

 文化財は原則、所有者がその保存に努めると文化庁の指針で示されておりますが、広い敷地に伴う固定資産税、相続税の税の圧迫に加え、連帯保証人となっていた親族の経営する会社の倒産に直面しており、所有者自身での保存が困難な状況に陥りました。 

 

以下、親族会社の経営危機が伝えられて以降の経緯です。

 

2021年年末 債権者から抵当権設定の話があり射水市に相談

2022年春  外国人ホテル経営者への売却の話が射水市より持ち込まれる

2022年夏  夏野市長、外国人ホテル経営者一行来訪

2022年秋~ 建築士、米国人投資家来訪

2023年春  

2023年夏  東京の不動産会社一行来訪

2024年正月 能登半島地震

      親族の経営会社閉業

 

正月早々に起きた能登半島地震が弱り切った経営に追い打ちをかけ、挽回することもなく閉業となりました。残された時間は多くはありません。

 

【残したい、守りたい、射水放生津の風景 】
 

放生津は、古くより射水平野の米の集積地であり越中の中核を担った湊でしたが、海岸の浸食により沿岸の風景も一変し、かつては川や水路が幾筋とあった町の景色も今ではほとんど失われてしまいました。現在は、内川と綿屋宮林家の周囲の堀に、その水路の面影をわずかに見ることができます。これは、郷土の歴史を後世に伝えるために絶対に残すべき風景であると考えます。

 江戸から明治への時代の大変革期、旧加賀藩領の政治、経済も大混乱な状況下にありました。その時代の越中において、その改革の一翼を担ったのが、伏木の能登屋藤井能三と放生津綿屋宮林彦九郎でした。放生津における文明開化期の歴史のほぼ全てを綿屋はその身にまとっています。

 

 この度、「放生津八幡宮の曳山・築山行事」が、国重要無形民俗文化財に指定されました。故郷の伝統を長きにわたって大切に守り続けてこられたその思いには敬服するばかりです。伝統的な獅子舞もあります。獅子舞を愛してやまない青年がこう話してくれました。「舞っていると、先祖と一体になれる感覚があるんです。だからやめられないんです」

歴史や伝統を後世に残す意味はここにあると思います。文化的遺産により過去を知り、先人の心を知ることで郷土愛が育まれ、地域社会に奉仕する気持ちが生まれます。

地域の力で地域の歴史を残したい、守りたい。そのために何ができるだろう。難しい挑戦とは思いますが、チャレンジするだけです。

ご署名のご協力を何卒よろしくお願い致します。

 

放生津綿屋宮林彦九郎16代目長女 堀井泰子

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2024年2月22日に作成されたオンライン署名