佐野 愛子Japan
May 24, 2024

裁判所は日本手話が発達過程にあるろう児の教育にどのような決定的な意味をもつか理解しないまま表面的な判断を下した。

簡単にまとめると、原告は日本手話が日本語とは全く異なる固有の言語であること、日本語を習得過程にあり、認知的な発達の過程にある児童にとって、自らが随意にしようできる第一言語の日本手話を使って学ぶことを約束され、これまでそうした教育を受けてきたにも関わらず突然日本手話の使えない教員が配置されたことによって教育を受ける権利、学ぶ権利を侵害された、と訴えたのである。

 判決では、憲法26条の規定が、「国民が必要な学習をすることを公権力から疎外されない権利や、公権力に対し必要な教育制度・教育施設その他の教育条件の整備を求める権利につき、学習権として保証するものと解される(pp. 30-31)と認めているが、上記の状況はまさに児童が北海道教育委員会及び札幌聾学校の管理職によって、学習を阻害された事例と言うべきである。にもかかわらず判決は、この点については立法府に裁量があるとし、第一言語により教育を受けることが憲法26条で直ちに保障されるとは解されない、という判断をした。

 これは、まさしく言語的少数者に対する言語的迫害に裁判所がお墨付きを与える行為で、厳しく非難されるべきものである。そもそも教育と言語は不可分のものであり、言語なくして教育は不可能なのである。その点をこの判決は全く顧みることなく「教育条件の整備の具体的な内容・方法の決定については、立法府の裁量に属するもの(p. 34)」であるから、札幌聾学校に在籍する児童に日本手話で教育を受ける権利が具体的権利として保証されたとは言えない、と言う。しかし、「教育条件の整備の具体的な内容・方法について、立法府の裁量である部分」というのは、たとえば学校にPCが何台整備されているかとか、特定のスポーツを指導することのできる教員が配置されているか、とか、提供する教育内容の質をどの程度保証できるか、できないか、というレベルの話であって、教育自体が届くかどうかという本質的な問題に対しては言えないはずである。それが言えるとするこの判決が「言語的少数者に対して学習権を認めない、言語的迫害にあたるものである」というのはその意味である。

 判決文には、教育において言語が、単なるコミュニケーションの手段、と言うだけではなく、学びを深めるための不可欠なツールであるということへの無理解が散見される。

 また、この判決自体が、ろう児の学びの機会は聴児の学びの機会に比べて貧弱な物であってかまわない、とする差別的な前提に立っていることについても厳しく批判されるべきである。判決文は、日本手話を第一言語とする児童に対する教育について、次のように述べる。「・・・日本語対応手話は、日本手話と一部の語彙を共有しており、日本語対応手話を使用すれば、日本手話を第一言語とする児童にも単語の一部を伝えることができる(p. 38)」。そもそも教員と母語を共有する児童であっても、学習においては様々な難しさがあり、それを言語を用いてわかりやすく説明し、学びを深めていくのが教育の現場である。翻って上記の記述では、ろう児の教育は、切れ切れの断片的な単語だけを提示され、そこから想像で補って理解できる部分だけ理解するレベルで仕方がない、と放言しているのに等しい。これが、憲法14条に規定される平等権の侵害でなくて何だというのだろうか。判決は続けて、動画やイラスト、図、写真等の提示などでも児童に情報を伝達できる、と指摘する。これは被告の北海道教育委員会の主張を受け入れたものと思われるが、この点だけ見ても、教育の本質に対する決定的な無理解が露呈していると言わざるを得ない。動画やイラスト、図などというものは、学習の補助として活用されるものであり、そこには常に教師による説明や、クラスメイトとのディスカッションがなくてはならない。そして、そうした説明やディスカッションは常に必ず言語によって媒介されるものである。図だけを見せれば教育である、というのであれば、教科書を配布すればそれで足りる、というのに等しい。

 判決文の中には繰り返し「日本手話以外の表現手段を用いても一定程度のコミュニケーションを取ることは可能である」と指摘する。この、「一定程度のコミュニケーション」のレベルが問題なのである。少なくとも、原告が示したように、「今日の給食が焼きそばだ」というような他愛もない会話も成立せず、算数の授業で児童が答えた数字も読み取れず、国語の教科書の詩を日本手話で読んだ児童に対し、何のコメントもできないレベルのコミュニケーションで、児童の発達を十分に支えるための教育を提供したことにはならないことは明らかである。ろう児であるから、その程度でしかたない、あきらめなさい、というこの判決は、明らかにろう者に対する差別的な判決であり、受け入れることはできない。

 この裁判では、原告の児童が裁判で証言に立ちたい、と希望したが認められなかった。日本手話という自分の〈声〉を奪われ、原告として自らの思いを伝える機会すら与えられなかった原告に対し、「これが正義だ」と伝えることなどできないと私は思う。

 加えて判決は、入学時点で日本手話を基盤とする学習を行うコースを選ぶか否か、という調査があったことや、札幌聾学校のHP上で「日本手話環境を整え、日本手話を基盤として日本語の読み・書きの力、学ぶ力を育てます」とあったからといって、日本手話を基軸とする授業が展開されると期待した原告らには合理性がないとする。原告が証拠として提示した、北海道教育委員会自身が作成し、現在もHP上で自ら発信している数々の資料について、それが保護者向けに作成されたわけではないことなどをその根拠としているがこれは詭弁と言うべきだろう。とりわけ「日本手話を活用するための基本的な考え方」という資料では「日本手話を教育的ニーズとする幼児児童生徒に対応できるよう、そして、日本手話を活用した指導ができる教員がすべての聾学校に配置され、日本手話を活用した指導を希望している学級数の倍程度配置されるよう、北海道教育委員会では、研修会を始めとする様々な事業に取り組み、日本手話で指導できる教員を育成しています。」と宣言しているのである。しかも、その方針に従った教育がここまで続けられてきたのに、いきなりはしごをはずされたのである。原告の父が記者会見で「学校にだまされた」と苦しい胸の内を表現したが、その思いを理解するのは難しいことではないだろう。

 繰り返しになるが、子どもの発達における教育と、それを支える言語の重要性について、改めて強調したい。主体的、対話的に学びを深める権利は、すべての子どもの権利の中で、生命にかかわる権利に次と言うべき、きわめて重要かつ根源的なものである。この点について、全く顧みることのなかったこの判決は全く不当なものだった。(文責:佐野愛子)

「日本手話を活用した指導の充実のために」 (https://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/ksk/sidousiryou.html

「日本手話を活用するための基本的な考え方」(https://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/fs/9/1/7/9/2/4/2/_/2.pdf

 

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