
賛同者の皆様へ
本署名に賛同し、勇気をもってご自身の考えを言葉にし、コメントとして残してくださった市民の皆さまに、深く感謝いたします。
Change.orgの仕様上、発起人である私は、賛同者の皆さまと同じ形でコメント欄に返信や意見を書き残すことができません。
しかし、コメントという「公の場」でご自身の考えを表明してくださっている方々に対し、発起人である私の考えも同様に共有されるべきだと感じ、本お知らせ機能を通じて、私の考えを公開させていただくことにしました。
以下は、本件について継続して考える中で、私自身が整理し言葉にしたものです。特定の立場や意見を強要するものではなく、一市民として、また本署名の発起人としての私の認識・問題意識の共有です。
――――――――――
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は日本国憲法第25条で保障されており、すべての国民が人間らしく生きるための最低限度の生活を保障し、国に社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上を義務付けています。
これは単に食う寝るだけの生活ではなく、教育、情報、家族・地域との繋がりなど、人間としての尊厳を保ち社会参加できる生活(生存権)を意味し、生活保護制度の根拠となっています。
健康について、病気を治療できること、衛生的な環境で暮らせること、心身の健康が保たれること。 文化的について、情報へのアクセス、教育、家族や地域との交流など、人間らしい生活を送る上で不可欠な活動に参加できること。
そして最低限度についてその社会で当たり前とされる生活水準(相対的貧困概念)を超え、社会的排除(孤立)を防ぎ、人間としての尊厳を保てる水準。 この権利が保障する具体的なことは生活保護制度があり、困窮する国民に対し、必要な保護を行い、自立を助長する制度の根拠です。国の責務について、国は社会保障制度(社会保険、公的扶助など)や公衆衛生の施策を通じてこの権利の実現に努める義務があります。
まとめると憲法第25条は、国民一人ひとりが人間らしく生きていくための基本的な権利(生存権)を定め、国にその実現を求める重要な条文であり、生活保護制度の理念の基礎となっています。
山上徹也被告と彼のお母様について、また彼の兄弟姉妹について、この彼らの権利が国の義務によって成立、存在、そして認識されていたでしょうか。私はそのようには決して思いません。この件について、慎重に考慮されるべきであると考えます。
責任をとるには時に犠牲を伴うこともあります。もっといえば、大きな責任、真の誠意のある重大かつ合理的な責任の場合、責任を負うものは勇気をだして自らの犠牲(お金、時間、人生、心、身体的な健康などあらゆるもの。人間関係における優先度の択一(例:絶縁 現在日本では血縁関係のある親子の法的な絶縁は不可能)など)を払うことになります。
この社会には、心には思っていても、正面にある問題に対して具体的に解決策を考えて実際に行動に移すまで行うことはとても困難なことです。たとえ知能が高くても。理性や時に悩み葛藤を抱えても、精神疾患のある人でも、いわゆる健常者の方でも。市民みな全員同じです。考え方、行動の出方が異なるだけです。山上被告の矛先が母親ではなく、その先の何が母を変えてしまったのか。家族を守るために何ができるか幼少期から事件になるまで、そしていま拘置所で過ごしている中で彼は考えています。
そしてこの署名活動を通して、私が気づいたのは、同情という感情論だけではなく、社会問題としてこの刑量を決めるという現在の体制について関心があり、考え、言葉にして伝えてくださる市民の方々が存在するという事実です。
先ほど私が述べた、責任について伴う犠牲とは、殺人を肯定するものでは決してございません。命をかけてまで払うほどの責任について、私は具体例を挙げることはできません。なぜならば、いかなる理由であっても、失った命を取り戻すことは誰にも不可能で、取り返しのつかないことだからです。
悲しくて恵まれない家庭だからという理由
で、その問題の解決策やいっときの怒りな
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は日本国憲法第25条で保障されて
おり、すべての国民が人間らしく生きるための最低限度の生活を保障し、国に社会
福祉・社会保障・公衆衛生の向上を義務付けています。これは単に食う寝るだけの
生活ではなく、教育、情報、家族・地域との繋がりなど、人間としての尊厳を保ち
社会参加できる生活(生存権)を意味し、生活保護制度の根拠となっています。健
康について、病気を治療できること、衛生的な環境で暮らせること、心身の健康が
保たれること。 文化的について、情報へのアクセス、教育、家族や地域との交流
など、人間らしい生活を送る上で不可欠な活動に参加できること。 そして最低限
度についてその社会で当たり前とされる生活水準(相対的貧困概念)を超え、社会
的排除(孤立)を防ぎ、人間としての尊厳を保てる水準。 この権利が保障する具
体的なことは生活保護制度があり、困窮する国民に対し、必要な保護を行い、自立
を助長する制度の根拠です。国の責務について、国は社会保障制度(社会保険、公
的扶助など)や公衆衛生の施策を通じてこの権利の実現に努める義務があります。
2まとめると憲法第25条は、国民一人ひとりが人間らしく生きていくための基本的
な権利(生存権)を定め、国にその実現を求める重要な条文であり、生活保護制度
の理念の基礎となっています。 山上徹也被告と彼のお母様について、また彼の兄
弟姉妹について、この彼らの権利が国の義務によって成立、存在、そして認識され
ていたでしょうか。私はそのようには決して思いません。この件について、慎重に
考慮されるべきであると考えます。責任をとるには時に犠牲を伴うこともありま
す。もっといえば、大きな責任、真の誠意のある重大かつ合理的な責任の場合、責
任を負うものは勇気をだして自らの犠牲(お金、時間、人生、心、身体的な健康な
どあらゆるもの。人間関係における優先度の択一(例:絶縁 現在日本では血縁関係
のある親子の法的な絶縁は不可能)など)を払うことになります。この社会には、心には思っていても、正面にある問題に対して具体的に解決策を考えて実際に行動に移すまで行うことはとても困難なことです。たとえ知能が高くても。理性や時に悩み葛藤を抱えても、精神疾患のある人でも、いわゆる健常者の方でも。市民みな全員同じです。考え方、行動の出方が異なるだけです。山上被告の矛先が母親ではなく、その先の何が母を変えてしまったのか。家族を守るために何ができるか幼少期から事件になるまで、そしていま拘置所で過ごしている中で彼は考えています。
そしてこの署名活動を通して、私が気づいたのは、同情という感情論だけではなく、社会問題としてこの刑量を決めるという現在の体制について関心があり、考え、言葉にして伝えてくださる市民の方々が存在するという事実です。
先ほど私が述べた、責任について伴う犠牲とは、殺人を肯定するものでは決してございません。命をかけてまで払うほどの責任について、私は具体例を挙げることはできません。なぜならば、いかなる理由であっても、失った命を取り戻すことは誰にも不可能で、取り返しのつかないことだからです。悲しくて恵まれない家庭だからという理由で、その問題の解決策やいっときの怒りなどの高ぶった感情のもと殺人がもしも許されるならば、この社会の治安は悪化に向かってしまうはすです。
安倍総理の死は、総理大臣という国のトップとして、命を奪われても妥当だったというような旨を意図するものではありません。山上被告の家族のを守ろうとした、彼の出来る限りの責任感、知能、理性が確かに存在しました。しかし、方法が適切ではなかったのです。いかなる理由があっても決して自殺したり、殺人したりすることはいけないことです。実際に事件が起きてしまった事実と過去は変えることは出来ませんが、本人そして周囲、またそれぞれの専門家の方々や支援し続ける市民が、この件を振り返り向き合うことは今ならば、できます。今ならば間に合うのです。
そして、山上被告の将来を変えることもまだできます。彼は、自身も自殺や精神的に不安定な時期を過ごした中、自分が精神異常者で、精神鑑定をして責任逃れをするどころか、自分に全て責任があり、熟考のもと矛先を安倍元総理とし、彼の命を奪ったこと、に対し謝罪しました。そして今も拘置所で振り返りながら過ごしています。精神異常により責任能力がないとみなされ刑が軽くなるのは理にかなっていません。そういう人が本来、然るべき施設で更生され、社会に戻るべきです。そうでないと社会の市民が安心して生活を送ることができません。
責任能力と罪を受け止め、振り返る彼の静かな時間について認識して頂きたいです。彼が法廷で述べる紡いだ言葉をどうか慎重に受け止めて頂きたいです。1人の命を奪って、無期懲役は明確に平等で適切な判決と思うことは、今までの他の刑事事件に対する判決の報道をみてきた市民として到底不可能です。司法に関する専門知識がない市民たちが考えても、明らかに重すぎる刑であると思います。凶器が手製の銃だったからなのか。矛先が安倍元総理大臣だったからだろうか。
過激な表現をしたくないのですが、正直に申します。私がもし山上徹也さんの立場や境遇だったならば、母を殺していたかもしれません。何が彼女を洗脳し変えてしまったのかその先まで考える労力と時間と精神的な摩耗や、犠牲を費やしません。銃でなくとも、包丁なりとも目先の母を命を奪っていたでしょう。なぜならば、私の人生や家族を滅茶苦茶に破滅、将来への絶望、生きる意味を失ったのは、目先の母の存在だからです。凶器が包丁で実の母の殺人ならば、無期懲役より軽い刑だったのだろうか。私はそう考えるけれど、彼はその選択を考えたのか、考えていなかったのか、母に矛先を向けなかった。立ち止まった。考えた。たった 1人で。誰も助けてあげることができなかった。長い年月の末、この事件を彼が起こしてしまった。その過去は変えることは出来ない。
しかし、彼が責任と理性と知性があることを示し、言葉と思考を巡らせながら、可能な限り責任のある証言を法廷で行っています。被害者であり加害者になってしまった山上被告が、適切な量刑のもと、安全に確実に更生し、残りの人生を”普通”に送って欲しいと、同じ市民として切に願っています。今すぐではなくても、彼が更生したとき社会に出て、感じて欲しいです。車が走る音。通り過ぎる人。社会の雑音。自然の静けさ。芸術に触れて心豊かに穏やかに楽しむ。冬ならばひんやりした空気。春ならば暖かな小風。硬い道路を一歩そしてまた一歩歩いて進みだす。彼ならばきっと大丈夫。私は彼の母親でも親戚でもないけれど、他人だからこそ、できることがあります。山上被告の助けてという心の声に誰も気づいてあげられなかった。防げていれば、今頃違った人生を歩んでいたかもしれない。
でもいま出来ることは、過去を振り返ること。そしてこれからできることは、未来を変えること。消防士になれば、命をかけて火の中に入らなければならないように、総理大臣という上に立たれる方は、どこの国でも特段リスクがあります。世界的な歴史をみても、暗殺や殺人未遂のリスクの高い職業です。それでもトップに立ち、この国の秩序を保守、改善してくださるのがこの職業です。その職業に就くためにどれほどの知識を得るために学業に専念してきたか、人生を捧げてきたか。誰でも容易になれる簡単な仕事ではありません。改めて、総理大臣は私たちにとって必要な存在です。その存在を守るために資金をかけ、護衛をつけています。私がアメリカで住んでいた約4年前、安倍元首相が殺害された旨の報道を見ました。たしか、テロリストという括りの報道でした。治安が良いという印象の日本でのこの一件はニューヨークでも大きな話題になっていました。今後の総理大臣に就かれる方が、命や身の危険を感じず、業務に専念できるよう警備体制を再度見直すことも一つの選択なのでは、と私個人は考えています。もちろん、殺そうとする行為自体に問題がありますが、それを予期して守る充分な対策も見直されるべきなのでは、と個人として考えています。防ぐことができたかもしれないのに、という警護体制の非難を意図する訳ではございません。あくまでこの事件通してこのような社会のあり方について考えるきっかけが生まれたという旨です。
また、宗教法人の在り方について再度見直すべきだと思います。例えば、元旦に神社にお参りし、賽銭を投じる。家内安全、交通安全などのお守りを購入する。これは健康的なレベルだと思います。一方で、新興宗教や他の宗教法人について、運営の実態はいかがでしょうか。国は市民の安全を守るために、適切な運営が行われているのかどうか、どの程度、把握されていて、管理されているのでしょうか。もっとも、自民党が岸さんの時代から安倍晋三元総理大臣へ政策を踏襲しましたが、調査や改善などの選択の余地はなかったのでしょうか。もし、今回の件で癒着があったことが真実ならば論外です。国が市民に謝罪するレベルの事象です。衆議院選挙はその次です。まずはこの件を解決してからです。優先順位が間違っていると考えます。先ほど述べた、神社での初詣による賽銭とお守りの購入と、宗教団体に入会し、多額の献金や高額な壺や絵画などの商品を営業し、信者が購入するまで誘導するこの行動は、商売とやってることには変わりがありません。新しい信者を増やして規模を、拡大すべく執拗な勧誘や自宅訪問による営業活動についても同様で、一般の企業が行っている外勤営業とやっている行為に変わりはありません。
私の実母の体験を述べさせて頂きます。隣の家に住んでいるサイトウさんの奥様が回覧板を渡しに私たちの家を尋ねてきました。渡しながら、サイトウさんは、母に対して、「私はとある宗教団体に入会しているんです。とっても良いところで、村上さんも(私たちのことです。)信者同士みんなで楽しくお話ししませんか。入会しませんか。」その日の夕方、私の母は泣いていました。「サイトウさん、いいご近所さんでこれからもお隣さんだし。なんて言って断ったらいいのか分からなくて悲しかった。悪気なさそうで、本当に親切心で私を誘っている感じだったの。」と言って涙を流し続けていました。隣の家なので、定期的に信者がサイトウさん宅を訪れたり、信仰している団体の大きなポスターをサイトウさんの門の入り口に貼ったり、毎日、念仏のような声が聞こえてくるので、私が母に、「ねぇ、お隣さんち、お葬式しているのかな。でもなんだか毎日聞こえてくるよ。」と尋ねたら、母は「それはきっと、お葬式などではなくて、宗教のお祈りなんだと思うよ。」と答えてくれました。学校の友だちと公園で遊んでいたら、知らないおばさんが声をかけてきて、「素敵な本があるから、これあげるから、ぜひ読んでみてね。」といわれ、女の子が神様に救われるという物語の冊子を配られました。私は、てっきり小説だと思っていたので、読んでいたら、たまたま気づいてくれた母が、「それ、どうしたの。誰からかもらったの。宗教の勧誘なんだよ。捨てようね。」と言ってくれました。私は素直に従いました。当時小学生でした。
また、私は2021年から3年間、アメリカのニューヨークに仕事で滞在しました。ニューヨークの中心エリアであるマンハッタンには創価学会の大きな海外拠点があり、信者の私の同僚は周囲の職員に宗教団体への入会の声かけをしてまわっていました。気を許している時に、何気なく切り出されるのです。初回にまず、宗教団体の支部マネージャーや管理職に面会させて、入信勧誘相手の抱える日常の悩みから心の闇までを言葉巧みに引き出し、心(心の弱み)を掴んで入信に導くのです。信者の彼女とは適度な距離感を保ち、宗教には触れず、自分自身を守りながら、その職場環境を離れることはできず、仕事を遂行しました。私は宗教団体の弱い者の心につけ込む、したたかな拡散勢力の大きさと手口を目の当たりにして、強い恐怖を感じました。そして、今の日本では宗教法人は、営利目的ではないとし非課税でベールに包まれたビジネスを行うことが可能な現状です。殺害されたり、傷つけられたりすることも身体的な事件ですが、一方で洗脳という精神的疾患を被らせるという行為もまた被害であり、犯罪行為です。ただ、血が流れたりしないので、目でみたり刑事事件と同じような物差しで被害を認知し、症状の程度の評価をすることは容易ではありません。具体例を挙げさせて頂きますと、元オセロの中島知子さんという芸能人がいました。洗脳が解けず、精神科に通院して治療をしても回復するまでかなりの期間を要したとのことです。この方は有名人なのでニュースになりましたが、氷山の一角に過ぎません。今現在も山上被告のお母様以外にも、洗脳、そして二世の子どもたちが、苦しんでいます。洗脳されている本人(この時点で被害は始まっています)が自覚がないので、実際問題、家族が守るしかないのです。でもどうやって。それは現実的な解決策でしょうか。
国としてできることは、たとえば第三者によるクーリングオフ制度の適用の認可、施行など。経理的な面から、献金という”勘定項目”を国が認知し、たとえば献金をサービス料として商品として捉える、そして実態を把握調査、監査する法律を作る。政治と宗教を切り離す。
今回の件で、山上徹也被告の生育歴や家庭環境、宗教とその関与している可能性の極めて高い自民党の市民が手製の銃で殺害されたこと。第一審では、山上徹也被告の人生背景と今回の事件への関連性(動機)を認めることが困難で無期懲役に至りました。それならば、私たち市民は、政治(たとえば自民党)と宗教団体が関連していないことを認知し信頼することは難しいです。
一方で、個人としてできることは、たとえば、私だったらば絶縁します。でも今の日本の法律では血縁関係がある親子について法的に絶縁することは不可能です。つまりこの選択にも限りがあるという現状なのです。家を売って、子どもを学校に通わせるはずの資金を持ち出して、中には借金をしてまで多額の献金をするという行為が、たとえ本人の意思だとしても、客観的にみてどう考えても異常ですし、精神的に健康だとは、素人ながらに、思うことができません。国は、このような宗教法人について、監視、把握、管理、記録するべきだと考えます。宗教法人に対する非課税措置の実態や、その運用状況について、国がどの程度把握しているのかという点についても、社会的関心が高まっております。物価高対策などの経済政策も重要ですが、高額な献金や物品購入が家庭に深刻な経済的負担を与える事例が指摘されている現状についても、冷静な検証と議論が必要ではないかと考えます。いわゆる経済的困窮を伴う献金問題など、社会的影響の大きい課題に対し、制度的な対応が求められていることもまた事実であると存じます。そしてまた、このようなことを市民がここまで掘り下げて思慮するきっかけを作ったのは、紛れもなくこの事件そして報道を通して私たちが知る山上被告の存在です。この事件が歴史の1ページとしてどのように、日本史の教科書に残るのだろう。後世まで語り、つぎの世代の未来の賢い子どもたちがこのことを振り返って欲しい。そして考え続けてほしい。なぜなら、真の武器は暴力や暴言ではなく、知識と経験だから。私は英文学科を卒業し、学位をとりました。本が語るのを、理解するのは人間です。私らしく、文学的に、最後にこの言葉をおきます。山上被告が、彼の母が何によって変わってしまったのか。変えることができるのか、考えて来たように、国や司法もまた、何が山上被告を変えてしまったのか、その先を見据えてほしい。山上被告の矛先が目先の母じゃなかったのは、紛れもなく子どもらしい純粋で本能的な愛情だと思う。命を失う重さは、山上被告が誰よりも知っている。だって経験した過去が事実としてあるのだから。国や司法が、山上被告が行った行為の方法や矛先について、考慮、思慮、注意深く判断資料として向かい合うことは、彼の誰よりも深い”大切な家族"への愛情を肯定するだけで、決して銃刀法と殺人罪を肯定することと同義ではない。切り分けて、犯罪行為だけで量刑を判断しないでほしい。これは同情ではなく司法の在り方へ問題提起しているつもりです。私もまた、宗教ではないものの、母から虐待を受けながら育ち、父は無関心だったので、絶縁という選択をとりました。私の今も続いている精神的な被害・症状を回復し乗り越えるための治療の選択として。社会人になって経済的に独立して初めてです。血縁関係のある親子(危険な人)と距離を取ることが可能になったのは。私は何が私の母を変えてしまったのかなんて考える余生や未来はありません。彼らは何も覚えていないからです。小学生当時のあの景色は死ぬまで忘れることができないけれど。私は矛先が母だったけれど、違うかたちで自分を守りました。
山上被告の妹や伯父様を想う気持ち。人間を裁くことは、"司法"ではなく、人間にしかできないこと。知識と経験が武器になる時代が来ること。もうすでにそんな時代に向かい始めている世の中を私たちが生きていること。両者の流れた血と涙を同じ天秤に乗せることは出来なくても、被告の背景を慎重に考慮して頂きたい。だってそれが"人間"ができる裁判なのだから。改めて心のどこかに静かに置いてみていただきたいです。
山上被告の家族のを守ろうとした、彼の出来る限りの責任感、知能、理性が確かに存在しました。しかし、方法が適切ではなかったのです。いかなる理由があっても決して自殺したり、殺人したりすることはいけないことです。実際に事件が起きてしまった事実と過去は変えることは出来ませんが、本人そして周囲、またそれぞれの専門家の方々や支援し続ける市民が、この件を振り返り向き合うことは今ならば、できます。今ならば間に合うのです。
そして、山上被告の将来を変えることもまだできます。彼は、自身も自殺や精神的に不安定な時期を過ごした中、自分が精神異常者で、精神鑑定をして責任逃れをするどころか、自分に全て責任があり、熟考のもと矛先を安倍元総理とし、彼の命を奪ったこと、に対し謝罪しました。そして今も拘置所で振り返りながら過ごしています。精神異常により責任能力がないとみなされ刑が軽くなるのは理にかなっていません。そういう人が本来、然るべき施設で更生され、社会に戻るべきです。そうでないと社会の市民が安心して生活を送ることができません。責任能力と罪を受け止め、振り返る彼の静かな時間について認識して頂きたいです。彼が法廷で述べる紡いだ言葉をどうか慎重に受け止めて頂きたいです。1人の命を奪って、無期懲役は明確に平等で適切な判決と思うことは、今までの他の刑事事件に対する判決の報道をみてきた市民として到底不可能です。司法に関する専門知識がない市民たちが考えても、明らかに重すぎる刑であると思います。凶器が手製の銃だったからなのか。矛先が安倍元総理大臣だったからだろうか。
過激な表現をしたくないのですが、正直に申します。私がもし山上徹也さんの立場や境遇だったならば、母を殺していたかもしれません。何が彼女を洗脳し変えてしまったのかその先まで考える労力と時間と精神的な摩耗や、犠牲を費やしません。銃でなくとも、包丁なりとも目先の母を命を奪っていたでしょう。なぜならば、私の人生や家族を滅茶苦茶に破滅、将来への絶望、生きる意味を失ったのは、目先の母の存在だからです。凶器が包丁で被害者が加害者の実の母の殺人ならば、無期懲役より軽い刑だったのだろうか。私はそう考えるけれど、彼はその選択を考えたのか、考えていなかったのか、母に矛先を向けなかった。立ち止まった。考えた。たった 1人で。誰も助けてあげることができなかった。長い年月の末、この事件を彼が起こしてしまった。その過去は変えることは出来ない。
しかし、彼が責任と理性と知性があることを示し、言葉と思考を巡らせながら、可能な限り責任のある証言を法廷で行っています。被害者であり加害者になってしまった山上被告が、適切な量刑のもと、安全に確実に更生し、残りの人生を”普通”に送って欲しいと、同じ市民として切に願っています。今すぐではなくても、彼が更生したとき社会に出て、感じて欲しいです。車が走る音。通り過ぎる人。社会の雑音。自然の静けさ。芸術に触れて心豊かに穏やかに楽しむ。冬ならばひんやりした空気。春ならば暖かな小風。硬い道路を一歩そしてまた一歩歩いて進みだす。彼ならばきっと大丈夫。私は彼の母親でも親戚でもないけれど、他人だからこそ、できることがあります。山上被告の助けてという心の声に誰も気づいてあげられなかった。防げていれば、今頃違った人生を歩んでいたかもしれない。でもいま出来ることは、過去を振り返ること。そしてこれからできることは、未来を変えること。消防士になれば、命をかけて火の中に入らなければならないように、総理大臣という上に立たれる方は、どこの国でも特段リスクがあります。世界的な歴史をみても、暗殺や殺人未遂のリスクの高い職業です。それでもトップに立ち、この国の秩序を保守、改善してくださるのがこの職業です。その職業に就くためにどれほどの知識を得るために学業に専念してきたか、人生を捧げてきたか。誰でも容易になれる簡単な仕事ではありません。改めて、総理大臣は私たちにとって必要な存在です。その存在を守るために資金をかけ、護衛をつけています。私がアメリカで住んでいた約4年前、安倍元首相が殺害された旨の報道を見ました。たしか、テロリストという括りの報道でした。治安が良いという印象の日本でのこの一件はニューヨークでも大きな話題になっていました。今後の総理大臣に就かれる方が、命や身の危険を感じず、業務に専念できるよう警備体制を再度見直すことも一つの選択なのでは、と私個人は考えています。もちろん、殺そうとする行為自体に問題がありますが、それを予期して守る充分な対策も見直されるべきなのでは、と個人として考えています。防ぐことができたかもしれないのに、という警護体制の非難を意図する訳ではございません。あくまでこの事件通してこのような社会のあり方について考えるきっかけが生まれたという旨です。また、宗教法人の在り方について再度見直すべきだと思います。例えば、元旦に神社にお参りし、賽銭を投じる。家内安全、交通安全などのお守りを購入する。これは健康的なレベルだと思います。一方で、新興宗教や他の宗教法人について、運営の実態はいかがでしょうか。国は市民の安全を守るために、適切な運営が行われているのかどうか、どの程度、把握されていて、管理されているのでしょうか。もっとも、自民党が岸さんの時代から安倍晋三元総理大臣へ政策を踏襲しましたが、調査や改善などの選択の余地はなかったのでしょうか。もし、今回の件で癒着があったことが真実ならば論外です。国が市民に謝罪するレベルの事象です。衆議院選挙はその次です。まずはこの件を解決してからです。優先順位が間違っていると考えます。先ほど述べた、神社での初詣による賽銭とお守りの購入と、宗教団体に入会し、多額の献金や高額な壺や絵画などの商品を営業し、信者が購入するまで誘導するこの行動は、商売とやってることには変わりがありません。新しい信者を増やして規模を、拡大すべく執拗な勧誘や自宅訪問による営業活動についても同様で、一般の企業が行っている外勤営業とやっている行為に変わりはありません。
私の実母の体験を述べさせて頂きます。隣の家に住んでいるサイトウさんの奥様が回覧板を渡しに私たちの家を尋ねてきました。渡しながら、サイトウさんは、母に対して、「私はとある宗教団体に入会しているんです。とっても良いところで、村上さんも(私たちのことです。)信者同士みんなで楽しくお話ししませんか。入会しませんか。」その日の夕方、私の母は泣いていました。「サイトウさん、いいご近所さんでこれからもお隣さんだし。なんて言って断ったらいいのか分からなくて悲しかった。悪気なさそうで、本当に親切心で私を誘っている感じだったの。」と言って涙を流し続けていました。隣の家なので、定期的に信者がサイトウさん宅を訪れたり、信仰している団体の大きなポスターをサイトウさんの門の入り口に貼ったり、毎日、念仏のような声が聞こえてくるので、私が母に、「ねぇ、お隣さんち、お葬式しているのかな。でもなんだか毎日聞こえてくるよ。」と尋ねたら、母は「それはきっと、お葬式などではなくて、宗教のお祈りなんだと思うよ。」と答えてくれました。
学校の友だちと公園で遊んでいたら、知らないおばさんが声をかけてきて、「素敵な本があるから、これあげるから、ぜひ読んでみてね。」といわれ、女の子が神様に救われるという物語の冊子を配られました。私は、てっきり小説だと思っていたので、読んでいたら、たまたま気づいてくれた母が、「それ、どうしたの。誰からかもらったの。宗教の勧誘なんだよ。捨てようね。」と言ってくれました。私は素直に従いました。当時小学生でした。
また、私は2021年から3年間、アメリカのニューヨークに仕事で滞在しました。ニューヨークの中心エリアであるマンハッタンには創価学会の大きな海外拠点があり、信者の私の同僚は周囲の職員に宗教団体への入会の声かけをしてまわっていました。気を許している時に、何気なく切り出されるのです。初回にまず、宗教団体の支部マネージャーや管理職に面会させて、入信勧誘相手の抱える日常の悩みから心の闇までを言葉巧みに引き出し、心(心の弱み)を掴んで入信に導くのです。信者の彼女とは適度な距離感を保ち、宗教には触れず、自分自身を守りながら、その職場環境を離れることはできず、仕事を遂行しました。私は宗教団体の弱い者の心につけ込む、したたかな拡散勢力の大きさと手口を目の当たりにして、強い恐怖を感じました。そして、今の日本では宗教法人は、営利目的ではないとし非課税でベールに包まれたビジネスを行うことが可能な現状です。殺害されたり、傷つけられたりすることも身体的な刑事事件ですが、洗脳という精神的疾患を被らせるという行為もまた被害であり、犯罪行為です。ただ、血が流れたりしないので、目でみたり刑事事件と同じような物差しで被害を認知し、症状の程度の評価をすることは容易ではありません。具体例を挙げさせて頂きますと、元オセロの中島知子さんという芸能人がいました。洗脳が解けず、精神科に通院して治療をしても回復するまでかなりの期間を要したとのことです。この方は有名人なのでニュースになりましたが、氷山の一角に過ぎません。今現在も山上被告のお母様以外にも、洗脳、そして二世の子どもたちが、苦しんでいます。洗脳されている本人(この時点で被害は始まっています)が自覚がないので、実際問題、家族が守るしかないのです。でもどうやって。それは現実的な解決策でしょうか。
国としてできることは、たとえば第三者によるクーリングオフ制度の適用の認可、施行など。経理的な面から、献金という”勘定項目”を国が認知し、たとえば献金をサービス料として商品として捉える、そして実態を把握調査、監査する法律を作る。政治と宗教を切り離す。今回の件で、山上徹也被告の生育歴や家庭環境、宗教とその関与している可能性の極めて高い自民党の市民が手製の銃で殺害されたこと。第一審では、山上徹也被告の人生背景と今回の事件への関連性(動機)を認めることが困難で無期懲役に至りました。それならば、私たち市民は、政治(たとえば自民党)と宗教団体が関連していないことを認知し信頼することは難しいです。一方で、個人としてできることは、たとえば、私だったらば絶縁します。でも今の日本の法律では血縁関係がある親子について法的に絶縁することは不可能です。つまりこの選択にも限りがあるという現状なのです。家を売って、子どもを学校に通わせるはずの資金を持ち出して、中には借金をしてまで多額の献金をするという行為が、たとえ本人の意思だとしても、客観的にみてどう考えても異常ですし、精神的に健康だとは、素人ながらに、思うことができません。国は、このような宗教法人について、監視、把握、管理、記録するべきだと考えます。宗教法人に対する非課税措置の実態や、その運用状況について、国がどの程度把握しているのかという点についても、社会的関心が高まっております。物価高対策などの経済政策も重要ですが、高額な献金や物品購入が家庭に深刻な経済的負担を与える事例が指摘されている現状についても、冷静な検証と議論が必要ではないかと考えます。いわゆる経済的困窮を伴う献金問題など、社会的影響の大きい課題に対し、制度的な対応が求められていることもまた事実であると存じます。そしてまた、このようなことを市民がここまで掘り下げて思慮するきっかけを作ったのは、紛れもなくこの事件そして報道を通して私たちが知る山上被告の存在です。この事件が歴史の1ページとしてどのように、日本史の教科書に残るのだろう。後世まで語り、つぎの世代の未来の賢い子どもたちがこのことを振り返って欲しい。そして考え続けてほしい。なぜなら、真の武器は暴力や暴言ではなく、知識と経験だから。私は英文学科を卒業し、学位をとりました。本が語るのを、理解するのは人間です。
私らしく、文学的に、最後にこの言葉をおきます。山上被告が、彼の母が何によって変わってしまったのか。変えることができるのか、考えて来たように、国や司法もまた、何が山上被告を変えてしまったのか、その先を見据えてほしい。山上被告の矛先が目先の母じゃなかったのは、紛れもなく子どもらしい純粋で本能的な愛情だと思う。命を失う重さは、山上被告が誰よりも知っている。だって経験した過去が事実としてあるのだから。国や司法が、山上被告が行った行為の方法や矛先について、考慮、思慮、注意深く判断資料として向かい合うことは、彼の誰よりも深い”大切な家族"への愛情を肯定するだけで、決して銃刀法と殺人罪を肯定することと同義ではない。切り分けて、犯罪行為だけで量刑を判断しないでほしい。これは同情ではなく司法の在り方へ問題提起しているつもりです。私もまた、宗教ではないものの、母から虐待を受けながら育ち、父は無関心だったので、絶縁という選択をとりました。私の今も続いている精神的な被害・症状を回復し乗り越えるための治療の選択として。社会人になって経済的に独立して初めてです。血縁関係のある親子(危険な人)と距離を取ることが可能になったのは。私は何が私の母を変えてしまったのかなんて考える余生や未来はありません。彼らは何も覚えていないからです。小学生当時のあの景色は死ぬまで忘れることができないけれど。私は矛先が母だったけれど。違うかたちで自分を守りました。
山上被告の妹や伯父様を想う気持ち。人間を裁くことは、"司法"ではなく、人間にしかできないこと。知識と経験が武器になる時代が来ること。もうすでにそんな時代に向かい始めている世の中を私たちが生きていること。両者の流れた血と涙を同じ天秤に乗せることは出来なくても、被告の背景を慎重に考慮して頂きたい。だってそれが"人間"ができる裁判なのだから。改めて心のどこかに静かに置いてみていただきたいです。
(コメント者: 個人発起人 村上, 東京都)
――――――――――
本署名は、犯罪行為を肯定したり、被害を軽視するものではありません。量刑や社会の在り方について、感情論だけではなく、立ち止まって考え、言葉にし、共有しようとする市民が存在しているという事実そのものを、私は大切にしたいと考えています。
コメントを寄せてくださった方、静かに見守ってくださっている方、それぞれの立場でこの問題に向き合ってくださっていることに、心から感謝いたします。
今後も、必要に応じて経過や考えを共有してまいります。
村上