

東京オリンピック・パラリンピック開会式で喪章着用と黙祷の励行を!
署名活動の主旨
東京オリンピック・パラリンピック開催により犠牲となった人々の声に耳を傾けよ---オリパラを開催するために選手や、関係者、および日本でのワクチン接種が優先されたことによってワクチン供給が遅れた地域が犠牲となってしまったことに対して、オリンピックの理念はどのようにその正当性を説明できるのでしょうか。このままでは理念の存続は不可能です。
コロナ禍の開催による感染の危惧 コロナ禍の真っただ中で開催される東京オリンピックに選手、スタッフ、オリンピックファミリー、報道関係者を含め、41,000人が同時に来訪することに強い違和感を覚えます。 IOCが開催都市と手を携えて開催するオリンピック・パラリンピック(オリパラ)ですが、コロナの状況において、参集する人数が多ければ多いほど、ウイルスが拡散するリスクが拡大することはもはや火を見るよりも明らかです。
亡くなりし方々を偲ぶ葬送儀礼こそ--東京には開催/中止の選択肢のはざまでもがき苦しんでおり、もはや息をすることもできないような閉塞感に覆われています。「犠牲を払っても」という言葉を耳にするだけで、日本を犠牲にしてでもオリパラを開催したい人がいる、と聞こえてしまいます。-かつてフランスブルターニュ地方で海底に沈んだ伝説の「イスの街(City of Is)」と同じく、東京はオリンピック・パラリンピックの枠組み構築に敗れ、もはや海底に沈んでしまったかのようです。東京に残されたのは敗戦処理でしかありません。しかし同時に、それは未来につながる希望でもあります。
TOKYO2020はBC776年に古代オリンピックが復活する前に開催されていた多くのオリンピアの祭典が葬送儀礼として開催されていた故事に倣って、祭典そのものを葬送儀礼の一部として開催することこそ相応しいのではないでしょうか。
開会式での黙祷と、参加者への喪章の推奨を--日本の伝統芸能である能では、亡くなられた者たちの魂の叫びが詩として残されています。今回の五輪開催による、自粛による経済停滞で自死に追いやられた失業者、ワクチンが早期に入手できずに不幸にして命をおとしたコロナ患者への哀悼の意を表す場所として、オリンピック・パラリンピックの開会式は葬送儀礼としてこそ、開催されるべきです。開会式冒頭での1分間の黙祷と、参列者への喪服、喪章の着用を推奨して然るべきではないでしょうか。
オリンピックの精神と美学から本質を掬い上げよ--かつて、古代ギリシアでMousik(音楽や文芸) 、Gymnastik(体育)と表現されていた生存に不可欠な文化が、ギリシア語ではTechneに、ラテン語ではArsとなり、現在の英語ではArt(藝術)と呼ばれるようになりました。このTechneもArsも、もともとは、学問そのものを意味していました。東洋では神に供儀として捧げられた羊は丸々と太っている必要があったことから美しいという漢字が生まれたように、捧げものとしての文芸、体育という藝術が美の世界を形作ってきました。それはものごとの本質に迫る作業でもありました。スポーツが世界の本質に迫る先にあるものならば、オリンピズムの理念もまたそれを体現するものでなければなりません。
オリンピック・パラリンピックの開催が人々の自由と生命と生きる権利を奪うものであって良い筈はありません。オリンピック・パラリンピックが大会を開催させようとしてきた過程で犠牲になった方々がいらっしゃったことを正面から受止め、哀悼の意を示さずして、私たちはこの「平和の祭典」を祝うことなどできません。オリンピック・パラリンピックの理念を生かすためにも、是非、世界の至るところで痛みを感じている人々とともに、哀悼の意を表明して頂くことを強く希望いたします。

署名活動の主旨
東京オリンピック・パラリンピック開催により犠牲となった人々の声に耳を傾けよ---オリパラを開催するために選手や、関係者、および日本でのワクチン接種が優先されたことによってワクチン供給が遅れた地域が犠牲となってしまったことに対して、オリンピックの理念はどのようにその正当性を説明できるのでしょうか。このままでは理念の存続は不可能です。
コロナ禍の開催による感染の危惧 コロナ禍の真っただ中で開催される東京オリンピックに選手、スタッフ、オリンピックファミリー、報道関係者を含め、41,000人が同時に来訪することに強い違和感を覚えます。 IOCが開催都市と手を携えて開催するオリンピック・パラリンピック(オリパラ)ですが、コロナの状況において、参集する人数が多ければ多いほど、ウイルスが拡散するリスクが拡大することはもはや火を見るよりも明らかです。
亡くなりし方々を偲ぶ葬送儀礼こそ--東京には開催/中止の選択肢のはざまでもがき苦しんでおり、もはや息をすることもできないような閉塞感に覆われています。「犠牲を払っても」という言葉を耳にするだけで、日本を犠牲にしてでもオリパラを開催したい人がいる、と聞こえてしまいます。-かつてフランスブルターニュ地方で海底に沈んだ伝説の「イスの街(City of Is)」と同じく、東京はオリンピック・パラリンピックの枠組み構築に敗れ、もはや海底に沈んでしまったかのようです。東京に残されたのは敗戦処理でしかありません。しかし同時に、それは未来につながる希望でもあります。
TOKYO2020はBC776年に古代オリンピックが復活する前に開催されていた多くのオリンピアの祭典が葬送儀礼として開催されていた故事に倣って、祭典そのものを葬送儀礼の一部として開催することこそ相応しいのではないでしょうか。
開会式での黙祷と、参加者への喪章の推奨を--日本の伝統芸能である能では、亡くなられた者たちの魂の叫びが詩として残されています。今回の五輪開催による、自粛による経済停滞で自死に追いやられた失業者、ワクチンが早期に入手できずに不幸にして命をおとしたコロナ患者への哀悼の意を表す場所として、オリンピック・パラリンピックの開会式は葬送儀礼としてこそ、開催されるべきです。開会式冒頭での1分間の黙祷と、参列者への喪服、喪章の着用を推奨して然るべきではないでしょうか。
オリンピックの精神と美学から本質を掬い上げよ--かつて、古代ギリシアでMousik(音楽や文芸) 、Gymnastik(体育)と表現されていた生存に不可欠な文化が、ギリシア語ではTechneに、ラテン語ではArsとなり、現在の英語ではArt(藝術)と呼ばれるようになりました。このTechneもArsも、もともとは、学問そのものを意味していました。東洋では神に供儀として捧げられた羊は丸々と太っている必要があったことから美しいという漢字が生まれたように、捧げものとしての文芸、体育という藝術が美の世界を形作ってきました。それはものごとの本質に迫る作業でもありました。スポーツが世界の本質に迫る先にあるものならば、オリンピズムの理念もまたそれを体現するものでなければなりません。
オリンピック・パラリンピックの開催が人々の自由と生命と生きる権利を奪うものであって良い筈はありません。オリンピック・パラリンピックが大会を開催させようとしてきた過程で犠牲になった方々がいらっしゃったことを正面から受止め、哀悼の意を示さずして、私たちはこの「平和の祭典」を祝うことなどできません。オリンピック・パラリンピックの理念を生かすためにも、是非、世界の至るところで痛みを感じている人々とともに、哀悼の意を表明して頂くことを強く希望いたします。

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2021年7月12日に作成されたオンライン署名