Petitioning 政府・宮内庁

御代替わり諸儀礼を「国の行事」に

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 全国民に大きな衝撃をもたらした今上陛下の「生前退位」問題は、ようやくゴールが見えてまいりました。陛下が昨夏、ビデオ・メッセージで国民に問いかけられたのは、退位が認められるかどうかというような陛下の「個人」的問題ではなくして、戦後の象徴天皇制度のあり方そのものだろうと私は考えておりますが、まことに残念ながら、その後の議論は退位の認否と法制化の手法に集中しております。

 事態を傍観せざるを得ないのは、我が身の無力とただただ恥じ入るばかりですが、事ここに至った以上はやむを得ません。むしろ気にかかるのは、陛下の退位によって次の御代替わりが早まり、そのことによって必然的に浮上する新たな課題です。

 それは、前回、様々な不都合が指摘された御代替わりの正常化についてです。対応を急がなければ、次も、またその次も、悪しき前例がそのまま踏襲されざるを得ないからです。私たちには手をこまねいている時間的余裕はないでしょう。

 最大の問題は、古来、御代替わり諸儀礼のうちもっとも中心的行事とされてきた大嘗祭が前回は「国の行事」ではなく、「皇室行事」とされたことです。もちろん理由があることでしょうが、それらは不正確な情報に基づいているように思えてなりません。

 誤解があればこれを解き、誤りがあるならば正されなければなりません。大嘗祭はどうみても「国の行事」とされるべきではないでしょうか。大嘗祭のみならず、御代替わりの諸儀礼全体を「国の行事」と位置づけ直すべきではないでしょうか。

 ここに長文を認め、関係者各位に問題提起しようと思い至ったのは、事態が差し迫り、時間が限られるなかで、皆々様と問題意識を共有し、問題解決に向かって一歩でも二歩でも前進させたいと心から願うからです。

 

▽1 二分方式で失われた国家的性格

 

 いちばんのネックは、ほかならぬ大嘗祭の形式と趣旨に関する誤解でしょう。

 大嘗祭は、一般的な理解では、宗教儀礼とされています。政府の立場も同様です。特定の宗教である神道の形式だというのなら、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則に抵触するという法解釈が当然、生まれます。

 けれども、ここに根本的な間違いがあると私は思います。

 先の御代替わりでは、石原信雄・元内閣官房副長官が回想しているように、昭和天皇崩御ののち、「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うかどうかが大問題となりました」(石原『官邸2668日』平成7年)。

 このため内閣に置かれた準備委員会などで、数か月にわたる検討が行われ、その結果、天皇の「国事行為」として行うことが困難とされ、「皇室行事」として行われることになりました。ただ、大嘗祭には公的性格があるから、費用は宮廷費から支出されることが相当と判断され、閣議で口頭了解されました。

 まず注目したいのは、「国の行事」と「皇室行事」との二分方式です。なぜ全体的に「国の行事」とされなかったのでしょうか。

 最初に二分方式が採用されたのは、昭和34年の今上陛下(当時は皇太子)の御成婚でした。このとき賢所大前での結婚の儀など3儀式が「国の儀式」(天皇の国事行為)と閣議決定されたのは、じつに画期的なことでした。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の憲法解釈がここに正されたからです。

 けれども、その一方で、旧皇室親族令附式にも記載される神宮神武天皇先帝先后山陵に勅使発遣の儀や納采の儀などは「国の儀式」とはされず、一連の儀式が二つに振り分けられることとなりました。

 結婚儀式が「国の儀式」とされたのに、はるかに重要な御代替わりの大嘗祭が「国の行事」とされないのは、常識的に考えて不自然ですが、それだけではありません。

 御成婚ではもっとも中心的な儀式が「国の儀式」と位置づけられたのに対して、御代替わりでは二分方式の基準に憲法の政教分離原則が新たに置かれることとなり、もっとも重要な大嘗祭が「国の行事」とは見なされなくなったのです。

 旧皇室令で明文法的に集大成された千年を超える皇室の伝統は戦後憲法の規定と対立するとされ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは憲法の趣旨に反すると解釈されて、皇室の伝統より憲法の規定が優先されることにより、御代替わり諸儀礼の伝統的名称や形式がいとも簡単に新憲法風に改変させられました。

 大嘗祭は「皇室行事」とされることで祭祀の形式はそっくり守られましたが、国家的性格は失われました。大嘗祭が行われたこと自体は間違いなく大きな成果です。天皇の聖域たる祭祀の中身が国家の干渉を受けずに済んだのは、怪我の功名かも知れませんが、手放しで満足すべきでしょうか。

 現行憲法および現行皇室典範制定の直接的責任者だった井出成三・元法制局次長は、何十年も前に、この分離方式を次のように強く批判しています。

「宮中祭祀は憲法上、いわゆる宗教であり、国費を支出して行い、国家機関たる地位にあるものが参列することは、憲法上問題があるとして、式典を二分して観念し、皇室の儀式は公の機関でない掌典職が執り行い、費用は内廷費で賄い、別途に国の式典を行い、宮中祭祀の色彩を一切除去することが正しいと考え、あるいはその一方を行うほかはないと考えることは、形式的な解釈に引きずられて、本質を見失っているのではないか」(井出『皇位の世襲と宮中祭祀』昭和42年)

 

▽2 稲作儀礼ではなく米と粟の複合儀礼

 

 大嘗祭は宗教儀礼でしょうか。憲法が禁止する「宗教的活動」なのでしょうか。

 先の御代替わりのあと、内閣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』(平成3年)は大嘗祭について、「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの……」と説明していますが、完全な誤りでしょう。稲とともに、神事に用いられる粟の存在が、まったく見落とされているからです。

 宮中の御儀は古来、非公開を原則とする秘儀ですが、関係する記録は「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、いくつも伝えられています。漢文体で難解なものがほとんどですが、漢字仮名交じりで読みやすい史料もあります。

 たとえば、京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」(仮題)一巻は、大嘗祭の中心的儀礼である大嘗宮の儀について次のように記述し、新帝が米と粟の新穀を神前に捧げて祈る「米と粟の儀礼」であることを生々しく説明しています。

「次、陪膳(はいぜん)、両の手をもて、ひらて(枚手)一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさ(膝)の下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はん(飯)のうへの御はし(箸)をとりて、御はん、いね、あわを三はしつつ、ひらてにもらせたまひて……」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)

 陪膳とは陛下の祭儀に奉仕する采女のことで、枚手は柏の葉で作るお皿です。ピンセット型の竹箸などとともに、古儀が継承されています。

 平成の大嘗祭もむろん同じです。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)は大嘗宮内陣での儀礼について、「次に神饌を御親供になる。次に御拝礼の上、御告文をお奏しになる。次に御直会」と説明しているだけですが、当時、掌典職に在籍し、御代替わり儀礼に携わった神道学者の記録は以下のように詳述し、「米と粟の祭り」であることは明白です。

「御親供 御飯筥の米御飯(こめのおんいい)、粟御飯(あわのおんいい)……などの神饌を、御親(おんみずか)ら竹製の御箸でとられ、規定の数だけ枚手(ひらで)に盛り供せられる」

 米と粟に軽重の差はなく、ともに供されるのなら、「稲作儀礼」ではありません。

 それなら、粟とは何でしょうか。政府の表現を借りるなら、稲作以前の畑作農耕社会に伝わる収穫儀礼の捧げ物でしょうか。

 私たちはしばしば日本人=稲作民族と思い込んでいますが、民族のルーツは多様です。稲は帰化植物であり、日本列島は必ずしも米作適地ではありません。正月に米の餅を食べない「餅なし正月(イモ正月)」の習俗が全国的に分布することも知られており、「焼き畑民の歴史的経験の痕跡ではないか」(坪井洋文『イモと日本人』)と指摘されています。

 粟はこの焼畑農耕民の主要作物であり、儀礼文化上、とくに重要視され、海外でも、たとえば台湾の先住民などは粟の神霊を最重要視し、粟の餅と粟の酒を神々に供えたといわれます。水田稲作が伝来する前、日本列島に暮らす畑作民たちに、南方に連なる粟の食儀礼が古来、伝えられていたことを想像するのは間違っているでしょうか。

 大嘗祭は天皇一世一度の新嘗祭ですが、もっとも古い新嘗祭の記録は『常陸国風土記』で、そこには米ではなくて粟の新嘗祭が描かれています。民間には古くから、稲作民の米の新嘗とは別に、畑作民の粟の新嘗が存在したようです。

 一方、宮中新嘗祭は民間の新嘗祭とは異なります。延喜式には米と粟が併記され、古くは天皇の日常の食事が米と粟だったことが推測されています。

 もし宮中新嘗祭も大嘗祭も「稲の祭り」ならば、稲の新穀を賢所で皇祖天照大神に捧げれば十分です。実際、「天皇の神社」である伊勢の神宮では、徹頭徹尾、稲の祭りが行われています。しかし天皇みずから斎行される宮中祭祀では、手ずから稲と粟が皇祖神ほか天神地祇に捧げられ、「国中平らかに、民安かれ」と祈られるのです。

 大嘗祭は、民間の稲作儀礼とは区別されるべきでしょう。大嘗祭は畑作民の儀礼と稲作民の儀礼の複合と考えられるのではありませんか。

 

▽3 米と粟による国民統合の国家儀礼

 

 なぜ天皇は稲作儀礼と畑作儀礼の複合を行われるのでしょうか。それは天皇の祭祀が、宗教儀礼であるというより、国民統合の国家儀礼だからではないでしょうか。

 戦後随一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生は、天皇の存在理由を生涯、追究し、「祭り主こそが天皇である」「天皇の祭儀は、国家の精神的基礎を固め成し、国民の精神を統合して行かせられるためにも貴重な御つとめなのである」(「神聖をもとめる心」など)と書き残していますが、天皇=祭り主だとして、天皇の祭り=「稲の祭り」ならば、稲作民の精神を統合し得たとしても、稲作伝来以前からの畑作民をもひとつに統合することは不可能でしょう。

 仏教公伝を伝える『日本書紀』は、崇仏廃仏論争の際、廃仏派の物部大連尾輿や中臣連鎌子が「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地(あまつやしろ)社稷(くにつやしろ)の百八十神(ももつあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と語ったと記録していますが、このころすでに天皇は多神教的祭儀を斎行する祭り主だったことが推察されます。

 古代の日本は氏姓社会でした。天皇は稲作民の神に稲を捧げて祈られるのと同時に、畑作民の神に粟を捧げて祈られたのでしょう。稲作民の儀礼、畑作民の儀礼を複合的に斎行すればこそ、多様なる民の側のそれぞれの祈りに呼応し、国と民を統合する国家的機能を果たされることになったのではないでしょうか。

 葦津先生は、天皇制の多面性、および民の側の天皇意識の多彩さに注目し、根強い民の天皇意識が「国および国民統合の象徴としての天皇制を支えている」(「国民統合の象徴」=「思想の科学」昭和37年4月号)と指摘しました。天皇の存在に目を向けるだけでなく、天皇と民の関係論的視点を提示したのはさすがの慧眼というべきでしょう。

 一神教世界ではこうはいきません。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」が絶対神の教えであり、ローマ教皇は一神教の神に祈るほかはなく、信徒も同様に、多彩な神意識などあり得ません。

 近年、ローマ教皇が3代にわたり、イスタンブールのブルーモスクに詣で、和解と平和の祈りを捧げたことが話題になりましたが、教皇が唯一神以外に祈ることはあり得ません。アメリカ同時多発テロの3日後、ホワイト・ハウスの依頼により、ワシントン・ナショナル・カテドラルで追悼ミサが行われ、歴代大統領や政府高官が参列し、諸宗教の祈りが捧げられ、以来、多宗教主義が世界の潮流になりつつありますが、みずから諸神に祈るのは昔も今も日本の天皇のほかにはおられません。

 公伝当時の仏教は国家儀礼としての仏教であり、古代中国や朝鮮では仏教が伝わると、従来の儒教儀礼が廃され、仏教儀式に取って代わられたようですが、日本では仏教が国家的に受容され、天皇が仏教の外護者となり、さらに天皇自身が仏教に帰依するようになられたのちも、既成の信仰は守られ、多神教的、多宗教的平和共存が保たれました。

 推古天皇の御代、仏教思想に基づいて制定された十七条憲法の第1条には「和を以て貴しと為し」とあり、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていました。

 宗教的多元主義が今日の時代の流れだとすれば、天皇の祭祀は千何百年も前にこれを先取りするものであり、人類の歴史の先端を行くものです。

 古代律令には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)と記され、歴代天皇は「凡そ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)を心に刻まれたのでした。

 近代になると、赤十字運動ほか、キリスト教の社会事業を物心両面から支援したのが皇室でした。昭和天皇には幼少期からたくさんのキリスト者が近侍していました。キリスト教徒にはキリスト教徒の天皇意識が生きていました。

 世界に稀なる平和で安定した多神教的、多宗教的社会の中心が天皇の祭祀です。大嘗祭は憲法に抵触する特定の信仰に基づく宗教儀礼ではなくて、むしろ多様な国民の信仰を同等に認め、信教の自由を保障する、価値多元主義的に国と民を統合する国家儀礼と理解されるべきではないでしょうか。

 それを一面的な理解で、「大嘗祭は神式だから」と国家儀礼の座から引きずり下ろしたのが、先の御代替わりではなかったでしょうか。誤解に基づく大嘗祭のあり方は直ちに見直されるべきでしょう。

 

▽4 失われた祭祀存続の法的根拠

 

 ふたつ目の問題は、政教分離に関する誤解です。

 明治維新後、新政府は祭政一致、神祇官再興を表明し、神仏分離が図られました。年来の神仏習合の清算は予想外の激しい廃仏毀釈へと転化しましたが、大きく変更を迫られたのは仏教ばかりではありません。

 社寺領の上知が布告され、「神社は国家の宗旨」とされた半面、神官・社家の世襲が廃され、陰陽道の布教は禁止され、虚無僧の一派や修験道が廃止されました。托鉢も禁止されました。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたようですが、維新後、仏事はすべて禁止され、宮中行事は激変しました。

 四方拝、歳旦祭、祈年祭、神嘗祭、新嘗祭など旧来の祭儀に加えて、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など新たな祭祀が生まれ、天皇みずから斎行される石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)は側近による毎朝御代拝に代わりました。五節句は廃され、宮中三殿が成立し、やがて天皇の祭祀は皇室祭祀令として、合理主義的、現実主義的に整備、確立されました。近代法的に明文化され、憲法を頂点とする国務法とは別の宮務法として、体系化されました。

 しかし敗戦後、いわゆる神道指令が発せられると、天皇の祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされました。掌典職は内廷の機関となりました。さらに日本国憲法の施行に伴い、皇室令は全廃されました。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律となりました。祭祀は明文法的根拠を失いました。近代以前に引き戻されたのです。

 それでも、祭祀の形式は従来通り存続しました。宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされたからです。

 ところが、昭和40年代になると、入江相政侍従長は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中しました。無法化の始まりです。毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化されました。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されていますが、疑わしいものです。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのでしょうか。

 50年8月には、宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められ、装束に身をただして宮中三殿内で拝礼する形式から、洋装で庭上から拝礼する形式に変わりました。

 会議の議事録は残されていないようで、いわば密室での変更ですが、国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委員会)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、やはり政教分離原則への配慮と推定されます。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りです。

 しかし宮中祭祀は、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」に該当する特定の宗教でしょうか。神道も同様ですが、教義もなく、布教の概念すらありません。開祖も宣教師も信者もいないのです。天皇の祭祀は国民の信教の自由を侵しようがありません。

 戦前の明治憲法下では政教分離が不徹底だったという見方があり、現行憲法下の厳格主義的対応を後押ししていますが、これも不正確です。

 たとえば、大正12年10月に関東大震災の犠牲者を悼む東京府市合同の追悼式が行われましたが、宗教者が排除され、既成の宗教形式が採用されない無宗教の式典でした。当時の行政は「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」(「中外日報」大正10年8月12日)という戦後にも勝る不干渉主義、政教分離主義を徹底させていたのです。

 

▽5 究明されざるアメリカの国家神道観

 

 今日、政教分離の厳格主義が天皇の祭祀を必要以上に縛り続けているのは、「国家神道」に関する根強い偏見があるからでしょう。

 近年、新たな国家神道研究が発表され、話題となりましたが、私はまったく感心しません。研究者たちはほとんど例外なく、日本の近代宗教史を研究対象としているからです。国家神道批判の出所は戦前・戦中期のアメリカなのであり、アメリカ人にとって国家神道とは何だったのか、を究明せずに国家神道研究はあり得ないでしょう。

 アメリカは戦時中から、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であり、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語がその聖典である、と考えていたようです。そのアメリカ譲りの国家神道観が戦後日本の行政に浸透し、いまも天皇の祭祀に影を落とし続けています。

 アメリカの国家神道観は戦時中の国策映画に端的に表現されています。

 たとえばフランク・キャプラが監督したアメリカ陸軍省のプロパガンダ映画「Prelude to War」(1942)や「Know Your Enemy : Japan」(1945)には、「田中上奏文」が取り上げられています。昭和2年に田中義一首相が昭和天皇に世界征服の手順を極秘で報告したとされる内容で、日本では当初から偽書と一蹴されましたが、アメリカでは本物と信じられたようです。なぜでしょう。

 皇祖神を絶対化し、現人神天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、国民に参拝を強制し、学校で教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していくという近代日本の姿は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しです。

「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖(もと)らず」は当初から「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえたのでしょうか。

 だとすれば、日本とキリスト教世界との軍事対決は避けられず、「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ませんが、「中外」は「朝廷の内と外」と解釈するのが正しいという指摘があります。とすると侵略主義の聖典ではあり得ません。

 アメリカは靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っていると考えていたのかも知れませんが、そんな事実はありません。それどころか、神職たちは一兵卒として応召しており、これを聞いたGHQ高官が仰天したという話すら残されています。

 日本での実写フィルムを巧みにつないだ宣伝映画は、彼らの日本観の反映です。彼らは戦時体制下の日本をキリスト教徒の眼鏡で見、自画像を見るごとく、日本の「軍国主義」に恐怖感を掻き立てられたのでしょう。

 他方、日本の近代化は国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を受け入れることでした。その先頭に立ったのが皇室でした。多元主義の文明が一元主義世界の文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立てたのは快挙ですが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていたのです。

 

▽6 国家神道批判を恐れるあまり

 

 ポツダム宣言は「無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるる」ことを表明しています。敗戦後、GHQが発令した「神道指令」は「目的は宗教を国家より分離するにある」とし、東京駅の神棚や注連縄までが撤去させられました。宮中祭祀は「皇室の私事」としてのみ存続せざるを得なくなり、靖国神社は国家管理を離れさせられ、教育勅語は奉読が禁止されました。「軍国主義者」たちは公職追放されました。

 当時の日本政府は「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や」という点については深い疑問を抱きつつ、当面は「皇室の私事」説で凌ぎ、いずれきちんとした法整備を図るとの方針だったといわれます。

 ところが、占領後期になると、GHQは期せずして、神道指令の解釈を「教会と国家の分離」に変更させ、神道廃止政策を取り下げました。昭和26年の貞明皇后の大喪儀は準国葬として旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 斂葬(れんそう)当日、全国の学校では一斉に黙祷が捧げられました。これを「国家神道への忌まわしき回帰」と猛烈に抗議するアメリカ人宣教師を、驚くなかれ、GHQは斥けました。独立回復後は神道指令自体が失効しました。

 GHQはなぜ神道指令の解釈・運用を厳格主義から限定主義に変更したのか、その理由は歴史の大きな謎です。謎は謎のままとして、GHQは日本を離れました。

 けれども、日本の「軍国主義」「国家神道」を過酷なまでに敵視したGHQでさえ掌を返すように柔軟化したのに、独立回復後の日本政府が宮中祭祀=「皇室の私事」説を覆すことはありませんでした。靖国神社批判はやむことがなく、公人中の公人であるはずの首相の参拝は「私人」の行為とされています。教育勅語も公的に追放されたままです。

 先の御代替わりでも、国家神道批判を恐れるあまり、政府は御代替わり諸儀礼の宗教性を過度に避けたと指摘されています。そして、憲法を最高法規とする一元主義の下に、皇室の多元主義的伝統を従属化させたのです。多元主義と一元主義の相克は続き、混乱の度を強めています。それが戦後の日本です。

 

▽7 問題意識を共有する同志の結集を

 

 陛下は即位以来、皇室の伝統と憲法の規定をともに大切にされることを繰り返し表明されていますが、いかに困難かが分かります。日本人はもはや畑作民でも稲作民でもなく、一様な国民となり、天皇制を根強く支えるはずの多彩な天皇意識は一律化しています。私たちは何者なのか、何者だったのか、問われているのは私たち自身なのでしょう。

 一方、陛下は即位以来、一般国民との交わりを大切にされてきました。子供、高齢者、障害者、被災者、そして戦没者。一様に見える国民にも多様性があります。天皇には「民の声を聞き」「民の心を知る」という王者の伝統があるといわれます。喜びや栄光だけでなく、悲しみや憂いを共有し、「民安かれ」とひたすら祈られるのが天皇です。1年365日みずから祭祀を重ねることで、祭り主の精神は磨かれ続けるのです。祭祀の正常化は古来の伝統の継承にとどまらず、きわめて現代的なテーマだといえます。

 大嘗祭のみならず御代替わり諸儀礼の正常化は容易ではありません。賛同者が増え、国民の声が高まるとともに、より多くの国民を説得し、理解を広げるには、諸分野の学問研究が深まることが不可欠であり、焦眉の課題です。

 葦津先生は一介の野人を貫きつつ、「学問は独りでするものではない」との考えから、みずから進んで思想的に異なる研究者たちとも交わり、天皇研究、歴史研究を磨きました。私たちもその後塵を拝して、問題意識を共有し、解決への意欲を共有する同志が集まり、天皇研究を多角的に進め、広く発信し、確実な問題解決への気運を強く巻き起こすことが求められていると思います。

 皆々様はいかがお考えでしょうか。お力添えをお願いできないでしょうか。

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