
大阪高等裁判所にて係争中の本件は、神戸地方裁判所での敗訴を受けて控訴した事案となります。
今回は、2022年10月12日に、神戸地方裁判所にて原告が行った意見陳述を皆様にご紹介します。大阪高等裁判所での意見陳述では言及できなかった内容です。
夫との出会い、家族の穏やかな暮らし、海外転勤前後の状況や、亡くなった直後の現地での様子などをありのままに述べています。かけがえのない家族を理不尽に失った原告の切実な思いが、胸に響きます。ぜひお読みください。
※意見陳述書とは、裁判の当事者が、事件に関する自分の意見や主張、あるいは思いを文書にまとめて裁判所に提出するものです。当事者の苦しみや家族に与えた影響、裁判を通して社会に何を問いたいのかを明らかにし、事案の全体像を裁判官に届ける、重要な役割を果たします。
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神戸地方裁判所 第1回口頭弁論 意見陳述書
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令和4年10月12日
神戸地方裁判所第4民事部合議係 御中
私は、亡くなった夫の妻であり、2人の子供の母でもある原告です。夫の突然の死をすぐには受け入れることができませんでした。今でも、なぜ夫が自死しなければいけなかったのか、との思いがあります。思い出すのも辛いですが、真実を明らかにするため、夫がどんな人だったのか、私にとってどれだけかけがえのない存在だったのかをお伝えします。
▼ 夫との出会い
夫とは2003年3月、友人の紹介で出会いました。夫は25歳、私は26歳でした。数回友人達と食事に出かけたのち、5月に交際を申し込まれました。明るく誠実な人柄に惹かれていたので、交際を受け入れました。
▼ 結婚までの過程
当時夫は神戸に、私は大阪に住んでいました。週末に会うのがとても楽しみでした。会うときは、いつも送迎してくれ私を大事にしてくれました。
将来の夢について、夫が「環境問題に興味があり入社した。まだ見積もりしかしたことがないから、プラントを作りたい」と話し、仕事にも前向きで大きな夢があるのが伺え、真面目で正義感があるのを感じました。
交際から2か月ほど経ったとき、私が勤めていた会社の都合で、会社に残るか辞めて実家に戻るか選択をしないといけなくなりました。まだ夫と交際して間もなかったのですが、夫のそばにいたいと思い、会社に残ることに決めました。
いつも穏やかで優しい夫に会うと、忙しくて疲れていた私の気持ちまで穏やかになったのを覚えています。夫から「おはようとお休みが顔を見て言えるから結婚したい」と言われ、とても嬉しかったです。交際から2年目の2005年11月に結婚しました。
▼ 妊娠・出産時の夫の様子
結婚を機に私は仕事を辞め、夫と川重の社宅で生活を始めました。結婚後は、夫の休みの日は旅行に行ったり、他愛のない話を夫としたり、何処にでもいる普通の新婚生活を送っておりました。
私は生活が落ち着き、子供が大きくなったら、自宅でアートフラワーの教室を開きたい夢がありました。夫は私の夢もよく理解してくれて、資格取得の事も応援してくれるような優しい夫でした。
そんななか、結婚2年目の7月に妊娠が分かり、夫は大変喜んでくれ、2人で喜びあいました。悪阻で気持ちの悪いときも優しく気遣ってくれ、また産院の父親学級も参加し妊婦体験などもし、家庭生活も積極的にしてくれて、生まれてくる子供や私のことを大事に思ってくれました。
▼ 家族の楽しい思い出
子供が生まれてからは、家の近くの公園にお弁当を持ってピクニックによく行っていました。2人目が生まれてからは、仕事の忙しさが増し、帰宅も遅くなりました。
2012年の2月、川重の社宅を出て、新居に引っ越しました。夫は忙しいなかでも、2人目の1歳の誕生日をお祝いするなど、子供を大切にしてくれました。 子煩悩な夫は、子供の写真を会社のパソコンの背景にして、会社の方に大きくなったねと言われたと嬉しそうに聞かせてくれ、子供が可愛くてたまらないようでした。
2012年12月下旬夫から「中国へ行く話がきた。家族が反対ならやめられる。他にも一緒に行く人がいる。2、3か月に一度は帰国できる」という突然の話が出ました。夫は、私と目線は合わせず無表情でした。私は寂しいと答えるのが精一杯でした。
2013年1月、一緒に行くことは出来ないのか聞くも、子連れで行っている人はいないと言われ、家族がバラバラになるのは嫌でとても寂しく思いました。
▼ 赴任直前の沖縄旅行
2013年の3月下旬、このときまでにとらないといけない勤続10年のリフレッシュ休暇を取得し、家族で沖縄旅行に行きました。出張や中国出向が決まった多忙の中の旅行でした。夫は、ホテルのプールで泳いだり、レンタカーを借りて沖縄ワールドなどの観光地巡りをしたりして、子供達と楽しみました。
旅行中に「帰ったら、中国行きの荷造りをしないといけない」と話したのを覚えています。3月31日に中国行きが決まっていたので、帰宅後に荷造りをした時、夫は「一緒に行く人の日にちが延びた」と言って、大変そうな表情をみせました。
▼ 中国赴任後の夫の様子
4月当初は、朝ご飯に日本から持っていったレトルト食品を食べていました。Facetimeで顔をみながら、一緒に食事をしました。4月末、夫から「一緒に行く予定やった人が来るのが延びた」と、一緒に赴任する予定の方の中国赴任がまた延びたとの話を聞きました。このときの夫は、暗く表情がありませんでした。 5月末か6月、私が「10年前に出会ったとき、こんなかわいい子供ができると想像つかなかったわ。パパと出会って幸せやわ」と話すも、夫は「ふうん」と生返事を返すのみでした。
6月の私の誕生日に何かメールが欲しいとリクエストしました。数十分後にメールが届きました。そこには、感謝の言葉や、チビが妬くぐらいますます仲の良い夫婦になろうねと書いてありました。将来のことが想像でき、読んでいて、おじいちゃんおばあちゃんになった姿が思い描かれました。嬉しくてお礼の電話をしました。 6月10日から12日までの端午の節句の連休中、夫は「他の人は、名所に行ったりしているけど、1人では、行く気がしない」と言っていました。
6月頃から、夫は見るからに急激にやせてきていました。6月8日か15日、私はFacetimeをしながら、幼稚園でシラミをもらった長女のシラミの駆除をしましたが、夫は見ているだけで、全然発語がありませんでした。
6月17日に,私もシラミをもらい、ギックリ腰と風邪を引いてしまいました。夫に愚痴を言ったところ、「僕の悪いのがそっちにいっているのかな」と話しました。6月中旬頃から、夫は自分から発語しなくなり、Facetimeの画面を見ているだけで、注意力が散漫になっていました。また、笑顔がなくなり、子供の様子を送っても見てくれていなくなりました。
その頃、夫は能面のように表情がなく、「一緒に来る予定だった人の到着がまた延びた」と話しました。6月末頃、夫は「見習わなあかんわ。全然やわ」など自分を卑下する発言をしました。7月4日、ボーナスはいつになるか私が聞いたところ、夫は「もう入っている」と言いました。夫は、いつもであれば、こちらから言わなくても支給されたら送金する人であったにもかかわらず、送金を失念していました。
7月6日、夫が「子守唄を歌ってくれ」と言うので、疲れているのだと思い、私は、ゆりかごの歌を歌いました。7月9日の晩、私から、幼稚園の話をしました。
一度画面が切れて、もう一度夫からかかってきて、顔を見ておやすみなさいと会話したのが私達夫婦の最後となりました。
▼ 夫の自死
7月10日の午後11時半頃、大阪にある夫の実家に川重の部長から電話がありました。夫の両親の話によれば、夫の自殺の話をする際、オロオロ動揺しながら夫の名前と父親の名前を間違えて話したそうです。
その後、私は夫の両親から夫が亡くなった事を聞きました。聞いた時は、ショックでガタガタ震え、受け入れることはできませんでした。
▼ 自死後の対面
7月12日に夫の父と総務部長と総務の方と中国へ行きました。翌日、中国の風習なのか爆竹がパンパン鳴り響くなか、安置所へ入りました。夫がよく履いていた青いジャージのズボンと裸足の足先が目に飛び込んできました。前に進みたくありませんでしたが、歩を進めました。記憶が途切れ途切れですが、夫の頬は冷たかったです。眠っているだけ、起きてほしいと思いました。
その後、中国公安がずらりと並ばれた物々しい雰囲気のなかで、何を聞かされるのか怖かったですが、説明を聞き必死にメモをとりました。通訳を通して「仕事以外に原因はない」と言われました。
夫が働いていた部屋を見せて頂くと、だだっ広い部屋に、夫と通訳の机がポツンとあるだけで孤独でサポート体制がないと感じ取りました。他の部署は机がずらりと並んでいるのとは対照的でした。
言葉も分からず、中国語も話せず、環境も風習も変わり、夫にどれだけストレスがかかっていたことか。入社2年目の通訳を介しての専門的な夫の仕事は、夫の伝えたいことが伝わっていたのか、間違いなく伝わっているのかさえ疑心暗鬼だったに違いありません。
▼ 葬儀と会社の対応
帰国後、葬儀を執り行い、会社の弔旗も飾りました。川重の方に数多く参列していただきました。葬儀後、川重から説明しに自宅に来てもらいました。神戸の仕事と変わっていないという説明ばかりで、腑に落ちませんでした。
▼ 労災認定
夫の自死の原因は、仕事以外考えられず当時の代理人の力を借り、2015年2月に労災申請をしました。2016年3月に自殺と業務の因果関係が認められ労災認定になりました。国が労災を認めているのに、川重は過労死を認めず謝罪はありませんでした。上司は、具体的な労働実態、業務内容など日々のメールのやりとりで実情を把握しています。何の手も打たず、トラブルの責任を押し付け夫のSOSを無視しました。
▼ 労災認定後、弁護団の先生との出会い
夫が亡くなってから、ずっと支援してくださっている方のご紹介で、2018年に今の弁護団の先生と出会いました。夫のノートパソコンに残っていたメールを一行一行、くまなく徹底的に調べていただきました。
▼ 私の想い
夫のSOSを川重が受け止め、すぐに対応してくれていれば、夫は今も子供の成長を一緒に見守り、私の横にいて幸せで穏やかな生活を送っていたはずです。
夫の尊い命は戻ってきません。夫と思い描いた未来もやってきません。夫の無念を晴らし尊厳が守られることを願っております。
真面目で責任感の強い夫は決して投げやりで自死したのではありません。国が夫の自死を労災認定し過労死と認めてくれたにも関わらず、川重の対応は企業を守ることのみ専念し、過労死であったと認めてくれません。今やグローバル企業で過労死と認定されたら、責任を認め謝罪し、再発防止を具体化するなどの対応が常識です。
川重の態度は、夫の命を軽んじるものであり強い憤りを感じます。川重にとっては、夫は3万人以上いる社員の中の1人かもしれませんが、私達にとってはとても大切なたった1人の夫であり父親です。
裁判に訴えるのは勇気がいりましたが、亡くなった夫の無念を思うと泣き寝入りしたくはないです。川崎重工業株式会社には夫の過労死に真摯に向き合っていただきたいです。
裁判所には、夫の自死は業務が原因であると因果関係を正しくご判断してください。どうか納得の出来るご判断をお願い申し上げます。
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今後の予定
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▼ 第4回口頭弁論
日時:2026年3月4日(水)11:00〜
場所:大阪高等裁判所
※10:15頃に東門付近で傍聴券が配布される予定です。
ぜひ、傍聴支援をお願いいたします。詳細は、海外労働連絡会Webサイト「取り組み」に掲載いたします。