無償の寄与という司法による人権侵害をやめてください。

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「無償の寄与」の強要という司法による人権侵害はやめて下さい。

当たり前のことですが、民法では「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある」とあり子供は全員平等に親をみる義務があります。ところが実際には扶養介護を担った人だけに「無償の扶養の義務」が裁判所から強要されます。

高齢の認知症の親を私が引き受けた時すでに親にはほとんど貯金現金がありませんでした。それから15年にもわたる扶養介護期間、サラリーマンとして働いた収入で100歳近くまで実家で親の面倒をみ、看取りました。その後家庭裁判所に遺産分割を訴えられて6年になります。夜もむっくり起き上がって徘徊する認知症の親をみながら多忙な仕事をし、がんにもなって…仕事を続けることは容易ではありませんでした。働いた私のお金から親のために多額の支出をしてきたので私は立替金請求裁判を起こしました。立替金を返してもらえるなら遺産額はわずかになり、遺産分割の支払金は払える程度に収まります。しかし

立替金請求裁判の結果2400万円の要求に対して認められたのは80万円でした。

実家の土地として残っていた3000万円ほどの親の #遺産 はほとんど残ることになり、「実家に住み続けるなら #相続 金を支払え、でなければ家は競売にする」と家庭裁判所に迫られています。すでに親に多額の費用を提供した私は支払えば厳しい老後が待っています。

「ありがとう、ありがとう」とばかりいいながら亡くなった親はいつも「私のお金を使いなさい」と言っていました。しかし年金4万円の他は初めから親に現金はありませんでしたからすべての支払いは私のお金でした。住家を取って厳しい老後を覚悟するか、みんなが大切にしてきた大切な家を売って支払うか悩む私を親はどう見ているでしょう。「長生きしてお金使わせて悪かったね。長生きしたいなんて言わなきゃよかったね。」と言うことでしょう。

 親が遺産をお金で持っていたとしましょう。親は「これで賄ってね。」と通帳を私に託したはずです。私は親から援助を受けたことは1度もなくお金についてはきれいだったので信用されていたからです。「親のお金は親が全部使って死んでいけばいい」というのが家訓でした。私は必要な分だけ引き落とし親のお金としてきちんと管理したはずです。私は親を旅行や芝居に連れていき不自由のない文化的な楽しい老後暮らしをさせました。長寿の時代です。霞を食って生きているわけではありませんからお金は減っていて当たり前です。でもこの裁判では減った分はほとんどすべて私の負担とされました。最高裁までも上告しましたが棄却されました。

 #裁判 をして分かった重要なことがあります。長くなって恐縮ですが読んでください。判決文の中に

「立替払契約についてみると、合意の成立時期及び内容に関する原告の主張が明確さを欠くことに加え、被相続人と原告の間で生活費等の負担者の区別が意識されていなかったことに照らすと、原告主張の立替払の合意を認めることはできないと解される。」(地裁判決原文まま)ここで裁判長は「契約」という言葉を使いました。私と被相続人との間に「立替払契約」がなかったとの判断です。だから支払う必要はないと言っています。

よく考えてみると私は親の扶養 #介護 の「契約」もしていませんでした。「契約書」はありません。介護施設との契約書を見てみました。「契約」をしたのは利用者(被相続人)で、隣に書かれた私の名は「家族(代表)」とか「代理人」になっていました。私は何の「契約」もしていませんでした。裁判長と同じ論法だと「契約書」がないのですから契約はしていないわけで、私に「扶養介護の義務」もなかったし「無償の扶養介護の義務」を強要させられるいわれもなかったわけです。もし私に「扶養介護の義務」があるというなら他の相続人にも平等にあるはずです。私はがんにもなり「出来ません」と言えばいつ扶養介護をやめても良かったのです。最後まで看取ったのは親に対する愛情と責任感からです。私一人に「 #無償の寄与 」の強要はやめてください。法の平等の原則に反します。